異端の建築家 梵寿綱

 丹下健三が香川県庁舎を設計した時、日本の木造

建築の繊細な木割りを鉄筋コンクリートで実現しよ

うと考えた。このため、コンクリートの型枠の制作

に宮大工を起用して、見るからに繊細な梁を作って

見せた。それは世界に例のないシャープなコンク

リート建造物となった。

 こうして、モダニズムの建築家は、それまで、の

びのびと腕にものを言わせて自慢の木造建築を作っ

てきた職人たちの腕を、図面通りに作業する機械に

おとしめてしまった。住宅においても、事情は同じ

で、大工は、ハウスメーカーの単なる組み立て作業

員にされてしまった。

 作業場からは、ノコギリ、カンナ、カナヅチが奏

でる軽快なリズムが消え、ホッチキスを打ち込む単

調な打撃音が響いてくるだけだ。

 それまでの建築には、大工、左官、板金工、錺職、

瓦職人など、誇り高い専門の職人たちの作業する領

域がたくさんあり、彼らは、任された領域の中で頭

と腕を駆使して、創造的な仕事をこなしてきた。

 しかし、モダニズムの建築は、こうした職人の働

く場所を奪ってしまった。

 ステンドグラスもそうだ。明治時代に導入された

技術が、モダニズムが席巻する直前まで非常に高い

レベルにまで進化し、建築の中でも最も重要な見せ

場を飾ってきた。

 昭和11 年竣工の国会議事堂は良い例だ。衆参の

議場の天井はおそらく日本で一番大きなステンドグ

ラスで覆われているが、テレビなどで映される映像

は、議場の下向きのものばかりで、ここが見事なス

テンドグラスに覆われていることなど、ほとんどの

人は知らない。

 戦後になると、街中がモダニズムの影響を受けた

建築に覆われてしまったので、ステンドグラスもほ

とんど見ることができない。最もステンドグラスの

活躍が期待されているのが教会だが、丹下健三の設

計した東京カテドラル聖マリア大聖堂では、祭壇の

背後の大きな縦長の窓にステンドグラスの代わりに、

大理石を薄くスライスした石材が嵌め込まれ、ここ

でも、職人が力を発揮する場所が奪われてしまった。

 

 

 

 

 

 『新建築』の編集部にいた時、田中俊郎(1934-)

という一人の建築家と出会った。東京茅場町にビル

を設計したので、見てほしいという話だった。

 それは「塚田ビル」という極めて硬い表情を持っ

たオフィスビルだった。

 きっちりとした左右対称の6 階建て、中央の縦軸

に沿ってガラスブロックの窓が小さく並び、その左

右はきっちりと黒いタイルで覆われた寡黙な表情

だった。

 横に回ると2階から5 階まで正方形のガラス窓が

整然と並び、6階には円形の窓が4つ並んでいる。

 一見して、とりつくしまのないとてもオフィスビ

ルとは思えない威厳のある建築であった。オフィス

ビルというより何かモニュメンタルな目的を持った

建築のような表情であった。

 『新建築』1969年11月号に掲載したそのビルの設

 

計者名は「梵」と指示された。

 梵は、国立劇場設計競技に佳作入選。最高裁設計

競技には選外佳作に選ばれた、田中を中心とする設

計集団であった。その6人の構成員は全員資格から

給与まで同一、密教の曼荼羅に設計理念を求めてい

ると書かれている。

 田中は会ってみると、よく話す普通の建築家で

あった。早稲田大学を出たあと、アメリカで学び、

仕事を通していろいろ学ぶところがあったことなど

を語った。さらに近況を話しているうちに、丹下の

近作に話が及び、私が、丹下は極めてオス的な建築

家だと言ったのに対し、田中は真っ向から否定して、

丹下ほどメス的な建築家はいないと主張したのが、

印象に残っている。

 田中によれば、丹下の都庁舎(旧)の一階ピロティ

の大きなレリーフや大阪万博の大屋根に穴を開けさ

せて、太陽の塔を立ててしまった岡本太郎こそオス

の典型で、それを黙って受け入れた丹下こそメスの

典型だというのだった。その他にも同時代の建築に

対して非常に的確な指摘をしていたのに驚いた。

 田中が梵寿綱と名乗り、その力を発揮するのは、

1970 年代から80 年代にかけてだ。建築の内外をタ

イルや彫刻で覆い尽くす梵の建築は次第に饒舌とな

り、カラフルになっていった。

 梵が雑誌に作品を発表する機会は多くはなかった

が、誌面を埋め尽くす写真は饒舌そのものだった。

しかしその誌面に溢れる言葉はもはや誰にも理解で

きないものとなっていた。梵は神秘的なベールに身

を隠して、他人の理解を拒んでいるように見えた。

 しかし、その作品に触れてみると、なかなか魅力

 

的なものがあった。

 装飾を否定し、職人たちの活躍する場を奪ってし

まったモダニズムの時代に、堂々と装飾を復活した

ばかりか、過剰な装飾で飾り立てている建築は驚く

ばかりだが、経済合理性万能のこの時代になぜこん

な建築が成り立つのか不思議であった。

 梵には多くの作品があるが、なんといってもその

集大成、最高傑作は「ドラード和世陀」だろう。

 1983年竣工、地下1階、地上6 階の集合住宅、1 階

には店舗、6階には田中自身のすまいがある。

 外観の全面を覆う夥しいカラフルな陶磁器の作品

群、そして、エントランスからエレベーターホール

まで埋め尽くす造形作品群。エントランスの足元に

広がる大きな顔のモザイク。

 どこを見ても制作に参加した職人、作家たちの

嬉々とした喜びに溢れている。

 近代建築が失ってしまった建築の表情がここには

溢れんばかりに表現され、来館者と建築の間に濃密

な会話があるではないか。

 田中と職人たちはいったいどんな関係で結びつい

ているのだろうか、最も興味深いところだがよくわ

 

 からない。

 かつて、朝日新聞の記者だった建築評論家、松葉

一清が興味深い体験談を残している。

 松葉は1984 年の暮れに田中が率いる職人たちと

の忘年会に参加したことがあった。

 それは、クリスマスの夜、新宿御苑の近くの中華

料理店だったという。松葉が呼ばれて顔を出した

ころにはすでに20 数人の職人たちが集まっていた。

左官職人、タイル職人、木彫家、ステンドグラス工

芸家、さらには当時何かと話題になっていた淡路島

の左官久住章などだったという。それはちょうど「向

台老人ホーム」の工事の最中だった。

 宴会は大いに盛り上がり、彼らが一丸となって工

事に取り組んでいる様子を雄弁にもの語っていた、

と記している。(『建築文化』1987年5 月)

 田中は、こうして職人たちの心を掴み、彼らが嬉々

として作業に打ち込める場を用意していたのだ。

 建築家と職人たちがこんなに信頼しあって、作業

に打ち込んでいる現場が他にあるだろうか。

 田中のもとで働く職人や作家のことを彼は「工人」

と呼んでいるが、彼は、細部まで指示することはせ

ず、細部は彼らに任されている。中には設計者の意

図を乗り越えて強く主張しているように見えるもの

 

さえある。

 興味深いのは、田中の作品の多くがマンション

だったり、商業ビルだったりすることである。多く

の場合、それらは、経済的な条件の厳しい、余分な

遊びの許されない建築である。田中はなぜそんな建

築で豊かな遊びができるのだろうか。

 建築には、経済性や合理性だけでは割り切れない

もっと豊かなものが期待されているのではないだろ

うか。そんな建築を求める施主がいて、それを喜ん

で作る製作者がいる。さらにそこに住みたい人もい

るのではないか。モダニズムだけが正解ではない。

 

そんなことを考えさせてくれる建築である。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。