「最近、ドローン事件のおかげで、首相官邸がよくテレビに映るわ」と恵美ちゃんは、今日は少しカールした長い髪を両肩に垂らしている。
「そうだね、思わぬ角度から官邸を見せてくれるから、建築オタクにとっては嬉しいかぎりだなあ」と赤いチェックのハンチングをかぶった建築家の東郷さん。
「屋根が平らだったんですね。ヘリポートもありますね」
「中庭があって、開閉式の天井があるのがわかる」
「向こうに同じビルが3棟並んでいるだろう、あれが議員宿舎だ」
「あら、議員宿舎って立派なんですね。その右に国会議事堂がみえるわ」
「屋根の半分は太陽電池のパネルが敷き詰めてあるね」
「手前が玄関ですから、ずいぶん奥行きがあるんですね」
恵美ちゃんがハンドバッグから写真のプリントを取り出した。
「私、首相官邸を見に行ってきたんです」
「どれどれ」と先生と東郷さんが覗き込んだ。
「警備が厳重そうだなあ」
「そうなんです。正面から写真を撮ろうとしたら、止められて、道路を渡った遠くから撮るように言われました」
「ドローン騒ぎでとくに今は警備が厳しいのかもしれないなあ」
「横へ廻ってみたんですけど、竹がびっしり植えてありました」
「なるほど、竹の縦線をデザインの要素として使っているんだな」
「裏側ですけど、田んぼみたいな浅い水の庭がありました」
「うーん、接近できないように、堀になっている、と同時に日本的な風景を造っているんだろう」
「高い壁がそそり立っていましたが、そこも、足元は水のあるきれいなお庭になっていました」
「警備と美観の両立をねらったわけだ」
「裏側は、壁が何重にも重なっていました。お城みたいでした」
「正面とはずいぶん印象がちがうね」
「この敷地はもともと崖地だからね、これは壁というより、擁壁だと思うよ」
「そうだな、首相官邸は表からは3階建てに見えるけど、じつは6階建て、いや、地下1階、地上5階建て、正面玄関は3階というわけだ」
「そうなんですか。ここが後ろ側ですが、とっても急な坂道でした」
「軒のラインが鋭いねえ」
「とってもシャープなラインだよね」
「軒はこの建築デザインのかなり重要な要素になっているなあ」
「正面の開放的な印象に対して、裏側は非常に厳重に防御的に造られていることがわかったよ。」
「そうなんです。正面の印象とはずいぶん違うと思いました」
「森の中に埋もれている秘密基地のような感じでした」
恵美ちゃんは撮って来た写真の説明を終えて、カフェラテの入ったカップに手をのばした。
「柔らかい緑の線と、鋭い軒の角、そしてガラスの対比がいいね」
「全体の計画図が発表されているので、これを見ると全体の配置がよくわかるよ」
「これは、テレビの画面から撮った写真だけど、正面だけ、非常に開放的に作られているのがよくわかるなあ」「これは、とっても不思議なデザインだと思いますが、どういう人が設計したものなんですか?」
「これは、官邸のなかに検討委員会ができて、ずいぶん時間をかけて検討した結果なんだよ。有識者会議が開かれて、丹下健三、芦原義信、鈴木博之などという人から意見を聞いたらしい」
「丹下さんまで呼ばれているんだ」
「まあ、丹下さんと芦原さんはすでにかなり高齢だったはずだから、注目したいのは歴史家の鈴木博之さんだ」「鈴木さんはとくにハイテクと和の要素を組み合わせたデザインにすべきだ、と力説したらしい」と宮武先生。
「全体はモダニズムだ。しかし、たしかに和の要素が感じられる」と東郷さん。
「どこが和なんですか?」と恵美ちゃん。
「第一に左右非対称。つぎに軒。」
「えーっ、左右非対称がどうして和なんですか?」
「これはアメリカの大統領官邸ホワイトハウスだ。左右対称、シンメトリーなデザインが国の権威を表現するデザインとしてよくきいているだろ」
「たしかに日本の国会議事堂もシンメトリーですね。では、なぜ首相官邸は非対称なんですか」
「じつは、日本建築の特質として左右非対称ということが昔から言われているんだよ」
「昔の建築も、もとは中国から入ってきた時は、全部左右対称だったのに、日本に入ったとたんに、非対称にくずしてゆく。法隆寺からして非対称なんだ」
「えーと、法隆寺は中門を入ると、金堂と五重塔と左右に並んでいますね」
「そうだろう、中国では、金堂を中心に据えて、五重塔を左右対称に置くのが原則なんだよ」
「確かに法隆寺は非対称ですね」
「それは、桃山時代になって、茶室、数寄屋建築になるとますますはっきりする。それこそ、日本建築の特徴だといわれてきたんだ」
「でも、和のデザインという方針から、非対称のデザインへ行くのは、相当大胆な決断力ですね」
「もし、丹下さんが設計していたら、必ずシンメトリーになっただろうなあ」
「つまり、日本的なデザインと指示されて、非対称のデザインでこたえた建築家は相当なツワモノだということだ」
「ガラスの中に木の格子が見えるだろう。これも和のデザイン要素だよ」
「そうですね。あれは、町家の格子のようですね」
「国家を代表する建築としては、かなり大胆なデザインだと思うよ」
「参考意見は、分かりましたけど、設計したのはだれなんですか?」
「うーん。それがはっきりしない。公式には建設大臣官房 官庁営繕部ということになっている。つまりお役人が設計した。しかし、漏れ聞くところでは、じっさいには日建設計がやったということだ」
「そうだろうなあ、これは、相当腕のたつヤツの仕業だぜ」と東郷さん。
「玄関前の車寄せもかわったデザインですね」
「非常に金属的な、それでスケスケの…」
「えーと、どこかで見たような、そういえばパレスサイドビルの庇とよく似てませんか?」
「うーん。そうだ、そのとおりだ。ここに日建のDNAが現れているぞ」
「モダニズムの建築でこれだけ軒が出ているのはめずらしい」
「ヨーロッパのモダニズム建築は立方体で、軒はないですからね」
「車寄せの庇から、ピアノの鍵盤のような壁面、そして軒と実にリッチなデザイン要素が重なっているぞ」
「ハイテクと和のデザイン、この建築の見せ場だな」
「それにしても不思議な軒ですね」
「軒の横の線をよく見てごらん。二重、よく見ると四重のラインになっているだろ。しかもそれが小さな単位に分割されている。ちょうど瓦屋根のような重厚な感じを出していると思わないか?」
「そうですね。隈研吾さんの根津美術館でも軒が印象的でしたけど、あれは、薄い一直線の軒線でした。でもここでは、わざと重厚な軒線をだしていますね」
「そうだろう、いわば、瓦屋根だ、唐招提寺の瓦屋根に結びついているといっても間違いない。そこへいくと隈さんのは桧皮葺だ」
「そうですか、非対称なデザイン、軒の出、透ける木の格子、これで和の雰囲気をだしているんですね」
「ドローン騒ぎのおかげで、首相官邸がゆっくり観察できました」
「よく見ると、まあまあ、よくできている」
「今回は外観だけで、内部が見られなかったけど、予算に糸目をつけず、しっかりと設計ができているような気がする」
「現在の日本が、国家の威信をかけて作った建築、衆知を集めてつくった建築といって間違いないでしょう。いわば、今の日本の建築の最高の水準がここにあるということでしょう」宮武先生がしめくくった。「明治維新以来、西欧から取り入れた建築を日本の風土、文化に適応させる努力を積み重ねてきたわけですが、その一つの到達点といえるかもしれしれません」
「あくまでも一つの解答ということだよ」と東郷さんがいつの間にか注文していたビールを飲みながら「おれに任せてくれれば、ずっといい建築を作ってやるぜ」
「東郷さん。大丈夫ですか??あーあ、酔っぱらっちゃったのかしら。」