バルセロナ最大のモニュメント、サグラダ・ファミリアは巨大な重機にかこまれてなんだか悲しそうだ。
キリストの生誕のエピソードを沢山の彫刻で表現した「生誕の門」、ガウディが自らの手で生み出した、まさにガウディの建築だ。
建築と一体になった、とろけそうな石の彫刻群。よく見るとキリストの誕生の逸話が見えてくる。
これらの彫刻のリアルな表現のために、ガウディは人間から直接型をとるなどさまざまの工夫をこらして生き生きとした彫刻を作り上げたといわれている。
ガウディはあらゆる細部にまで気を配って、作り続けたため、ガウディが自分の手で仕上げたのは、わずかに生誕の門の周辺だけであった。
柱を支えている亀。至る所に具象的な形が表現されている。
タワーの階段の小さな窓からはバルセロナの街が見える。
中に入ると、巨大な空間が上空高くそびえている。ガウディの手を離れ、近代の技術を駆使して建設が続けられているからだ。
巨大な聖堂が出来ているのだが、ここにはガウディの魂はない。ガウディの心はない。効率よく巨大な聖堂が建設されているだけだ。
その大げさな建設にガウディは圧倒され、悲しんでいるように見える。
ガウディの模型に基づいて作っている、というかもしれない。しかし、ここにはガウディの心はない。感動はない。
これを見るためにスペインまできたのではない。
こんな建築をつくり続けていいわけがない。
足下にあった、小学校、ガウディが職人たちのためにつくった小学校がよかった。波打つカタロニア・ヴォールトがじつによい。
ガウディは自分の生きている間には完成できないことはわかっていた。だれかにバトンタッチしなければならないこともわかっていた。
しかし、まさかこんな形で完成を急いでいるとは夢にも思わなかったにちがいない。こんなことなら、生誕の門までにして、永遠に未完の聖堂として残したほうがはるかに価値があったにちがいない。
今の聖堂建築はガウディを辱めるものである。
ガウディは泣いているにちがいない。
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1951年生まれ (日曜日, 19 4月 2020 23:46)
学校卒業して一年働き大学の先生と一緒にヨーロッパ建築見学に一月半出かけた時にスペインにも寄った。もう四十五年前の話である。当時はまだ日本にはガゥデイはそれほど紹介されておらず白黒の写真のみ。近代建築に慣れた眼にはグロデスクであった。ただバルセロナに着き、実作のガゥデイの建築に触れた時に、チャーミングという言葉、色使い、細部が童話のように語りかける。地階の教会、カサミラ、郊外の住宅訪れた時に犬に追いかけられたとか、圧巻は、サクラダファミリア。まだ観光地でなく内部には立ち入れないが、螺旋の手摺のない階段。渦巻き模様。アンモナイトから銀河までの渦巻き。ミクロコスモス、マクロコスモス。細部にも宇宙観があった。
カーンはニューヨークでベンチで人知れず亡くなり、コルビジェーは海に入ったまま帰らぬ人となった。ガゥデイは市電事故。見なりが余りにもみすぼらしい為に数日間知られずの最後であった。魂まで捧げないと傑作はできないのかと思った。