丹下健三の「平和資料館」とともに、広島を代表する近代建築、村野藤吾設計の「世界平和記念聖堂」。それは、広島駅にほど近い裏通りに静かに佇んでいた。
鉄筋コンクリートの骨組みと、その間を埋める粗いブロックの面を見せた、直方体の塔と聖堂。その端正な佇まいは文句なく素晴らしいものである。
丹下の力強い平和資料館とは対照的な、静かな落ち着いたデザインである。
丹下健三と村野藤吾。それは戦後の建築史を彩る最大のライバルである。ある意味で戦後の建築史はこの二人の建築をめぐって形成されたといっても過言ではない。
しかし、見るものをもっとも悩ませるものは、この建築がコンペ史上に汚点を残す不透明な出来事を経て出来上がったことである。
原爆投下後の広島で、復興計画を象徴するように、ほぼ同時に二つの大きなコンペが行われた。世界平和記念聖堂と平和公園である。
審査の結果、記念聖堂は一等なしの二等に井上一典と丹下健三。平和公園は丹下健三と決まった。平和公園の計画は世界の建築界が注目し、これをきっかけに丹下健三は世界のタンゲへと飛躍した。ところが、記念聖堂は一等なしのため、コンペ案は採用されず、いつのまにか、審査員の一人であった村野藤吾の手によって設計が進められたのであった。
審査員が一等を出さずに、自分の手で設計を進めてしまうなど許されることではない。
この建築は原罪を背負って誕生したのである。
なぜ、そんなことになったのか。詳しい説明はないまま、厳しい資金難のなか、ラサール神父を始めとする信者たちの献身的な努力により、世界中からの献金によって、4年の歳月をかけて完成する。
「不十分な出来だが、10年後には少しは見られるものになるでしょう」村野は、言葉少なく、だが名言を残して広島を去る。竣工後10年、20年後には見るも無惨に劣化してゆく近代建築への痛烈な批判を含んだ言葉であった。また、村野はカール・ボナーツの建築を参照した、とデザインの出典を正直に語っている。
たしかに、コンクリートの枠組みの中にブロックを埋め込んで、静かな表情を出す手法はボナーツそっくりである。
悩ましいのは、不透明な経過にも関わらず、美しい美談に飾られながら、だれも文句の言いようのない美しい建築になっていることである。
入口上部の欄間には、村野藤吾の盟友、今井兼次のデザインによってキリストの七つの秘跡を表した彫刻が収められた。今井兼次は、ラサール神父の信頼も厚く、コンペの審査員でもあったから、村野藤吾の設計決定にも深く関わったと思われるが、そのいきさつについて何も語らなかった。
玄関ポーチを飾る「七つの秘跡」の欄間
玄関の扉。この玄関扉、鐘、ステンドグラス、パイプオルガンなど、装備品は殆どが、海外からの寄贈によって埋められた。この玄関扉はドイツ、デュッセルドルフ市からの寄贈である。
資金難のため、きわめてシンプルな建築に、こうした寄贈品が重厚な味わいを加えている。
連続する単純なアーチ、シンプルな空間にステンドグラスを通した多彩な光が満ちている。微妙なグレーの無装飾の壁面、木製の天井。アーチの曲線だけが建築要素として表現され、やさしく包み込むような、親しみ深い空間になっている。
側廊部も同じような連続するアーチで象られている。
建築のかたちが抑制されているのに対し、ステンドグラスは多彩だ。正面祭壇の彫刻も非常に大胆、思い切ったデザインだ。降り注ぐ光を表すような斜めの金色の帯が効果的だ。
側壁の高窓は、控えめながら、形に工夫があり、小さいながらステンドグラスがはめ込まれ、静かに多彩な光をそそいでいる。
この建築のコンペに際して、基本的な条件がつけられていた。
1、日本的な性格を尊重すること
2、健全なモダン・スタイルであること
3、外観、内部とも宗教的な印象を与えること
4、記念建築としての荘厳性をもつこと
であった。
当然、村野藤吾はこうした条件にそって設計を進めたにちがいない。
最も難しかったのが、日本的な性格という条件だったかもしれない。
ラサール神父の出身国であり、今次大戦で日本と同様に大きな犠牲をはらったドイツからは鐘やステンドグラスなどおおくの寄贈品がよせられた。
幾何学的な造形が鋭い光を注いでいる。
モダンなデザインのステンドグラスから降り注ぐ鋭い光は、村野の前近代的な柔らかな室内に生き生きとした力強い陰影を与えている。
内陣も曲線とドームで構成されている。
祭壇上部の高窓から光が降りそそぐ。
バラ窓のような大きな円形のステンドグラスが祭壇の両脇にあった。これも放射線状の鋭いモダンデザインだ。
祭壇の上部はドームになっていた。その裾を飾る雲形の窓。どことなく日本的な形ではないだろうか。村野藤吾はこんなところで日本的な性格を表現しようとしたのだろうか。丹下が桂離宮にヒントを得て、柱梁の構成によって日本を表現したのに対し、村野はあえて曲線的なデザインを使ったのが興味深い。
後ろを振り向くと入口上部にパイプオルガンが据えられている。
塔の中には鐘が吊るされているが、その音が街に響くように鐘の位置には多くの開口部が開けられている。
塔は、聖堂と同じようにコンクリートの枠組みにブロックをはめ込んだものだが、ブロックがわずかに後退しており、そこにできた微妙な陰影のため枠組みが多少強調されている。
ブロック積みの壁面は平坦になることを避けるため、目地を荒くし、ブロックをところどころ飛び出させている。そうした工夫が壁に厚みとソフトなタッチを与えている。
直線で構成された外観のなかで、この小聖堂のみ花びらのような曲線で構成され、対照的なデザインを楽しんでいる。
丹下のデザインはすみずみまで張りつめて緊張を強いるが、村野はこうした遊びがあり、資金難にもかかわらずデザインを楽しむゆとりがある。
乏しい予算の中でも、創意工夫を凝らしていることがよくわかる。
十字形の小さな窓。小さな工夫が建築に豊かな表情を与えている。
側廊の上部にゴシック建築のようなフライングバットレスが連なっている。さらに内陣上部のドームの外形も見える。
ドーム屋根の上に鳳凰の彫刻が取り付いているのも見ることができる。教会に鳳凰とは意外な取り合わせだが、日本的な性格を期待するという教会の希望にそうものであろう。宇治平等院鳳凰堂の鳳凰を手本にしたと言われている。
外観を見学していたら、修道女がこの位置から鳳凰が見えますと教えてくれた。
南側の側面。いろんな形の窓がよく見える。どれも三つの輪を組み合わせた、どこか日本的なデザインになっている。
丹下健三が平和記念資料館で、モダニズムの建築に日本建築の要素を加味して世界の建築家をうならせたのに対し、村野はロマネスクを思わせるような前近代的なデザインで関係者を納得させた。
その当時、村野はすでに経験豊富な60歳に達していたが、丹下は40歳で、本格的な鉄筋コンクリートの建築としては初めての仕事であった。コンクリートの扱いについては、悪戦苦闘したという。
一方、村野藤吾は渡辺節の元でチーフデザイナーとして腕をふるい、さらに独立後も森五ビル、そごう本店、宇部市渡辺翁記念会館など多くの作品を戦前に実現しているのだ。キャリアの差は歴然だ。
しかも、丹下は大学を卒業しても、日本が戦争に突入し、ほとんど仕事のチャンスがなかったのである。
二つの建築は、その後の補修によって、丹下は多くの変更を余儀なくされたが、村野は補修をしたものの、なにごともなかったかのようにほとんど同じ表情で立ち尽くしている。そこに建築表現の違い、設計者の力量の差、村野の熟達した腕力を見て取れるのは間違いない。
しかし、二人の閲歴を考えてみれば、だからといって、村野のほうが力量が上であるというのはフェアではない。
そこで、もう一度問いたい。優れた建築は、誕生の汚名をぬぐい去るに十分だろうか?
終戦直後のきわめて資材の乏しい時に、創意工夫を凝らして出来上がった、二つの対照的な建築、それは建築の本質についてさまざまに考えさせてくれる。広島は今後もわれわれの興味を引きつけて離さない。
世界平和記念聖堂については、広島大学工学部教授石丸紀興著『世界平和記念聖堂』(相模書房)によく描かれている。参考にさせていただいた。
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dsfjヴ89あうぇyt (月曜日, 31 10月 2016 11:02)
jdfぎおうh;xy09spぉjklgびおxp9gh0うy
学生 (木曜日, 25 10月 2018 14:05)
参考になりました!
学生 (月曜日, 21 9月 2020 09:26)
楽しく読ませていただきました!
建築に興味がわきました!