東光園の今

東光園 設計:菊竹清訓 1964(昭和39)年
東光園 設計:菊竹清訓 1964(昭和39)年

ついにやって来ました。鳥取県、皆生(かいけ)温泉のホテル東光園。それは松林の中に高々と空を突くように聳えていた。

巨大な柱の束6本が、二枚の巨大な梁を空高く支え、2層の客室フロアを吊り下げ空中に浮遊させている。

1964年、菊竹清訓の設計で完成。従ってすでに竣工後50年がたっているが、颯爽とした勇姿は変わらない。

たくましい柱群が客室がある5・6階の床を支えている様子がよく分かる。

天皇陛下が泊まったのはこの6階のスイートルームである。

天皇陛下のご宿泊が決まってから、この建築の設計が始まった。

ちょっと離れると、民家の間に浮かんで見える。

東側へ回ってみるとエレベーターと階段が見えてくる。

エレベーター、階段は建築の外部に取り付けられた。それぞれが強く自己を主張している。

南側、海岸から眺めると、日没後の薄暮の中に浮かんだ姿は、ものがたりの中の幻想のお城のような、一瞬「砂上の楼閣」という言葉が脳裏を掠めた。

屋上の食堂の三角屋根が非常に効果的。

玄関前のひさしの様子。建築から分離独立したひさしを柱が支えている。

ひさしだけでもタダモノではない。

ロビーは、竣工時と何も変わりがない。明るく華やかで、凛とした緊張感を漂わせている。

上階を支える雄渾な柱群はロビーの真ん中に堂々と立っている。

高い窓の透明ガラスを通して、強い朝日がロビーの奥まで差し込んでいる。

大きなガラス窓とそれを支えるサッシと添え柱。

スティールの添え柱には木の化粧材が張り付けられている。

主柱を支える添え柱と貫(ぬき)材。鉄筋コンクリートで、木造の貫を造ってしまった、菊竹の強引な造型。もし、1本で作ると2メートルの太さになってしまう。窮余の策として5本に分割したという。

なにしろ、6本の柱で、客室フロアを上空に支えるため、柱にかかる荷重は並大抵のものではない。

貫材は主柱を貫いているわけではないのに、貫通しているかのようなデザイン。菊竹はここに「日本」を表現したかったに違いない。

ある人は鳥居と表現したが、鳥居だとしたら、普通の鳥居ではない。添え柱で支えられた厳島神社の鳥居に違いない。

この建築のもっとも印象的な部分、もっとも力の入っている部分がこの柱である。菊竹はこの設計を進める課程で、出雲大社を意識したのかもしれない。

出雲大社はその巨大な神殿を支えるために、3本の合わせ柱を束ねていたことが確認されているが、あの柱を意識したのであろう。

この建築が見るものに感動を与えるとしたら、柱が大きな役割を果たしているにちがいない。建築というものが本来もっている構築する力、支える力、柱が担っているそうした役割を最大限に表現してみせたものだ。

打ち放しコンクリートには細いリブの突起がついている。

この細い突起が柱の力強さと優しさを強調している。じつに丁寧な仕事ぶり。

パルテノン神殿の柱のフルーティングを意識したのかもしれない。

50年たったとは思えない。室内の柱はなんの損傷も見られない、美しい状態だ。

天井から下がったオブジエは銅鐸を想起させるデザインであった。しかし、これは当初のものではない。

ロビーを取り巻く2階の廊下。

2階から見下ろしたロビー。朝の鮮やかな日差しがさんさんと差し込んでいる。

ロビーの前に広がる庭園と浴室棟。造園は流政之の設計。

4階の吹き放しの庭園。5階、6階の客室はこの上に浮かんでいる。

太い柱と梁がここに露出している。

階段。階高の違いが階段の長さに反映して、その分外に突き出している。

階段は何も支えるものがないので、全て本体からカンチレバー(片持ち梁)で突き出している。そのため透明感がある。

7階の食堂、3方に開放されており、見事な展望が開かれている。正面は日本海、左から朝日が、夕刻には右から夕陽が日本海に沈んでゆくのを見ることができる。

7階から見える、日本海に沈む夕陽がこれだ。

天井のシェル屋根の頂部には大きな天窓が明いている。

残念ながら、この部屋は現在使用されていないようだ。

別館の客室

大きな床の間

床の間の照明

客室玄関の下駄箱と一体になった照明

3階客室の廊下

高層棟の横にある客室棟の外観。張り出した4階は食堂。いまは、宿泊客は主にここに泊めている。

建築家の中で、菊竹清訓ほど多くの建築家を育てた人はいない。ちょっと思い出すだけでも、内井昭蔵、仙田満、長谷川逸子、伊東豊雄、富永譲等、現代建築を担って来たそうそうたる建築家が菊竹の事務所の出身である。

なぜ、菊竹はこんなに多くの人材を育てたのだろうか。

あるとき、伊東に尋ねたことがある。伊東の答えは「あの事務所に入るとその日から一人前の仕事を与えられ、死に物狂いでやらないと生きていけない。だから2〜3年で一人前になってしまう。ほとんどの人が4〜5年でやめて独立するんです」というものであった。

一人一人に与えられる仕事が並外れた過酷なものだったらしい。

改めて菊竹清訓のすごさを認識させられた。

帰宅すると、親しい友人から「あれ、東光園てまだあったんですか?」と聞かれてしまった。

立派に存在していました。

営業中です。

しかし、心配もないわけではありません。

「山陰の名旅館東光園に泊まる旅行」と看板を掲げた観光バスが入ってきた。ここには天皇陛下をはじめ、皇族方も多数来られたと書かれている。皆生温泉ではダントツに有名な旅館なのである。しかし、現在、この旅館は1泊12,000円とそんなに高級な旅館ではない。朝夕ともバイキングと極めて大衆的な設定である。その落差の理由がわからない。

 

また、海辺の鉄筋コンクリート打ち放しのため、外部に露出した主要な構造部分にかなり気になる亀裂が多数見られた。有効なメンテナンスが行われているとは思えない。内部はよく当初の美観を保っているが、外部はちょっと心配になる状態であった。この名建築の行方が気になる。

 

最後に、東光園は菊竹事務所のOB、早稲田大学のOBたちをはじめとする建築家達の聖地として崇拝されているが、本当に名建築だったのだろうか。たしかに建築家の表現力は極限まで発揮されている。ものすごい迫力である。感動する。

しかし、この建築はその後の社会の変化に追随できずに、今では、あまり有効に使用されず、単なるモニュメントと化しているようにも見える。建築表現が勝ちすぎていたのではないだろうか。旅館としては、使いにくかったのではないだろうか。いろんなことを考えさせてくれる。

 

良くも悪しくも、戦後日本建築を代表する傑作である。戦後の建築の力強さをよく表現している。しかし、同時に当時の建築の欠陥も露呈しているような気がする。近代建築のファンのみなさん、今のうちに東光園に1泊し、よく見学されることをお勧めします。そのさい、できれば、宿泊は本館をおすすめしたい。十分に楽しめることを保証します。

 

なお、この建築の現場は遠藤勝勧が務めた。遠藤は、事務所の開所以来、40年務めたため、語りべとして、当時の菊竹の仕事ぶりをよく語っている。この現場も菊竹の意図を実現すべく現地の実情との調整に命を削るような悪戦苦闘が続いたらしい。

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コメント: 2
  • #1

    永田光弘 (金曜日, 11 8月 2017 15:46)

    30数年前、屋上から眺めた時、
    複雑な屋根の谷間に雨水がプール状に溜まっているのを見た時は
    ちょっとがっかりしました。
    それと、改めて写真を拝見すると、建物全体(特に外観)のデザインが纏まりがないですね。多分、スタッフが若すぎたのではないでしょうか。
    でも、昭和を代表する建築でしょう。
    出雲大社の一作目作品が一番好きです。

  • #2

    小川格 (金曜日, 11 8月 2017 18:09)

    破綻しているのに、なぜか、憎めない突き抜けた魅力があるんですよね。
    出雲大社の菊竹建築も取り壊されるみたいです。なんとも残念ですね。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。