小金井の江戸東京たてもの園へやってきた。
前川自邸は、園の入口を入ると真っ先に目につく所に、しかも、東南の最高の角度から接近してゆく。
背景は見事な林だし、庭の東南隅には大きなケヤキが茂っている。
申し分のない立地だ。
目黒にあった当時の平面図だ。建築はもちろん、門からのアプローチも移築後とほとんど変わっていない。
大きな屋根の下、二層分の大きな開口部。
その中心に丸い柱。
どっしりと落ち着いた見事な立面だ。
切り妻を正面にした強い表現、さらにそれを強調する象徴的な棟持ち柱。
左右に流れ降りる破風板が、先端へ向けて幅を広くしているのがわかる。
これらが伊勢神宮の影響といわれている。
この設計を担当したのは、崎谷小三郎。
この住宅の設計にかかるころ、日本は太平洋戦争に突入していた。
前川事務所は国内には仕事がなく上海華興商業銀行の仕事のためにスタッフの多くを上海の支所に出していた。
しかし前川は自邸の担当者として上海から崎谷を呼び戻す。
崎谷は門司に上陸すると、あちこち見学しながら東京へもどるが、このとき、伊勢神宮も見たらしい。
広がった破風板を母屋の先端を閂(かんぬき)にして固定している。かなり装飾的なディテールである。
崎谷小三郎は初め、山口文象の事務所に勤めたが、レーモンド事務所に勤務していた前川を慕って、レーモンド事務所へ移る。しかし、レーモンド事務所も仕事がなくなり、前川は崎谷らを連れて退所、事務所を開設する(1935年・昭和10年 前川30歳)。
前川の崎谷に対する信頼は厚かった。
大谷石を積んだ二枚の塀。そには門扉がない。
担当した崎谷は苦心してスケッチを進めるが、伊勢神宮を思わせる大屋根の案を前川に見せるのはさすがにためらいがあったという。
しかし、前川はじっと見つめたままついになにも言わなかった。
モダニズムを掲げて走ってきた前川が自分の家にこの大屋根を受け入れた心境は複雑だったにちがいない。
玄関からの視線を遮る大谷石の壁には穴があいている。
遮るような見せるような・・・。
玄関からサロンへ入る大扉。動かしてみると驚くほど軽い。軸の向こうは無垢の木、こちらは空洞にしてバランスをとっている。葛布(くずふ)を貼った仕上げがなかなかよい感じだ。
前川はこの主室を居間と言わず、サロンと言っていた。
正面が食卓のテーブルと椅子だ。
突き当たりの上部の丸い入口はキッチン、バスルーム、寝室、とプライベートな諸室への通路。階段の下にさりげなく開いている。
大きな開口部からさんさんと日光が降り注ぐ。
ここは、家族との団らんに、友人たちとの会合に、あるいは事務所としても使われた。4.5メートルの高い天井のこの部屋は多様な使われ方を許容した。
前川がこの部屋をサロンと言った意味が分かるような気がする。
戦争が始まって住宅の30坪制限の中で、精一杯豊かな空間を実現したといえる。
南側開口部は上下2段に分かれており、下は障子がはまっているが、上段は透明ガラスのみ。庇が1.5メートルほど出ているので、冬は陽が差し込むが、夏はほとんど差し込まないのかもしれない。
開口部の幅は3間半(6.37m)。ガラス戸一枚の幅は1.59m。当然重い。建設当時は金物が使えなかったので、レールが木製だ。もちろん極力硬い木が使われている。いまもそのまま木製だが、動かしてみると非常に軽く動く。驚きだ。
大きな窓だ。
窓の桟は木だけでガラスをとめているが、じつに堅実にできている。
窓の内側にも円柱が立っていた。
この住宅が目黒に1942年に竣工した当時、前川事務所は銀座にあった。
前川は独身で、お手伝いさんの親子が住み込んでいた。
しかし、1945年3月の、東京大空襲により銀座の事務所は焼失してしまう。
しかたなく、この自宅を事務所とする。このサロンと階段を上がった2階は製図板が所狭しと占領する。
戦後の名作、紀伊国屋書店、神奈川県立図書館・音楽堂、日本相互銀行などがここから生まれた。
食卓は実に不思議な形をしている。
食卓用のペンダントには力がこもっている。
事務所がここへ移ってから3ヶ月後、戦争が終わるのを待っていたかのように、1945年8月19日に前川は結婚し、ここへ夫人を迎えている。
ここに大勢の所員、お手伝いさん親子、そして前川夫妻、ぎゅうぎゅう詰めだったに違いない。だれもが、住まいを失い苦しんでいた時代だった。
戦争が終わって9年、1954年四谷にオフィスが完成、やっとここが住宅専用となり、夫婦水入らずのすみかとなった。戦争末期から戦後の10年ちかくここがオフィスとして使われたことになる。
1956年には増改築を行い、そのとき、南側の丸柱を撤去し、ブレース入りの角柱とした。
こんな写真を記憶している人もいるかもしれない。
円柱が撤去されて、角柱となり、振れ止めのブレースが入っている。
ずいぶん印象が異なる。
この状態で長く建っていたことになる。
小金井での再建にあたっては、やはり建築当時の円柱に戻そうということになったらしい。
南側の開口部には雨戸があるが、引き込んだあと、戸袋が90度回転するので、まったく気にならない。指摘されないと、雨戸の存在に気がつかない。
言われて外から見ると確かに雨戸がちゃんと収まっている。奥は寝室なので、普通に引き込むことができないのだ。よく考えたなあ。
寝室だ。前川は、建築に専念すると子育てはできない、として、子どもはつくらなかった。師のコルビュジエに習ったのだろうか。
バスルーム 完全に西洋式、ホテルのようだ。
キッチン。
なぜかキッチンもバスルームも西洋の生活文化のかおりを強く感じる。
1942年にこれをつくるセンスはやはり、前川のパリでの2年間の暮らしが反映しているに違いない。
そう思っていたら、先日、前川事務所に長年勤務し、この住宅の移築を担当した中田準一氏が講演(江戸東京博物館、2015年11月5日)の中で、それは、崎谷小三郎氏が当時上海で身につけたものだ、と話していた。
前川事務所は上海に支所を置いていたが、当時の上海は欧米諸国が占拠し、極めて華やかな国際都市だった。所員たちはそこで、国際感覚を身につけたというのだ。これは、意外な指摘だった。
前川国男37歳の作品。
1973年には、この住宅もさすがに手狭になって、ついに鉄筋コンクリートで立て直すことになった。このためこの住宅は解体されたが、これは、そのうち軽井沢に再建しよう、と材木をすべて倉庫に保管することになった。
自邸は20年ほど夫婦の専用住宅として使われたことになる。
しかし、軽井沢の再建は日の目を見ないまま、1986年に前川は没した。
1994年、藤森照信氏から、江戸東京たてもの園への移築の話があり、ついに再建が実現した。そのとき、中田準一氏が前川事務所の担当者として努力された。
中田準一氏は前川事務所の所員として、埼玉会館の外構、埼玉県立博物館、熊本県立美術館、国立国会図書館新館などを担当されたが、最後に前川自邸の再建を担当して、前川国男のその後のすべてがこの住宅に込められていたと感じたという。
その思いは『前川さん、すべて自邸でやっていたんですね』(2015.5,10 彰国社)でよく書かれている。
このブログは本書を参考にさせていただいた。
前川自邸はいろいろと考えさせられる、味わい深い作品である。これが再建されて一般公開されているのはじつにありがたい。
住宅というものは、なかなか見学の機会がないものである。機会があったら、ぜひ見てほしい。
最後に、大きな切り妻のファサード、棟持ち柱、先に広がる破風板等は確かに伊勢神宮からの影響を感じさせる要素だ。なぜそんなことにこだわるのか?
これが竣工した1942年、太平洋戦争の最中、日本は国粋主義に染まっていた。伊勢神宮が特に日本を象徴する建築として高い評価を得ていた。前川国男でさえ国粋主義に染まっていたのか、という思いがあるからだ。
たぶん、そうなのだろう。時代がそうだった。
しかし、伊勢神宮をまねたから国粋主義的だという論理はなりたつだろうか。
竣工後73年たって、いま見ても、国粋主義的な印象はどこにもない。ファサードも室内の空間もちっとも古くないのだ。
前川が、1956年の増改築で丸い棟持ち柱を撤去して、角柱とし、ブレースを入れたのは、構造的な弱点を補う必要があったためらしいが、あるいは、戦後10年ほどたって、伊勢神宮の影響を捨てたいという気持ちもあったのかもしれない。
ともかく、前川自邸は長い歴史を背負って生き延びた。いま見ても、戦争中の厳しい制約の中で造られたとは思えない、おおらかで、力強い、そして味わい深い作品である。やはり近代の住宅の中の傑作といって間違いないと思う。
参考図書
『建築の前夜・前川國男文集』而立書房
『建築の前夜:前川國男論』松隈洋、みすず書房
『前川國男・現代との対話』松隈洋、六曜社
『前川國男・弟子たちは語る』建築資料研究社
『前川さん、すべて自邸でやってたんですね』中田準一、彰国社
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