2011年8月20日、東日本大震災から5ヶ月がすぎた気仙沼を訪ねた。
気仙沼駅前はなんの異変も感じられなかった。
港へ向かう気仙沼街道も平穏であった。
一見したところ、津波も地震もなんら影響を与えていないように見える。
地震には弱そうな蔵でさえなんの被害も受けたいないようにみえる。
7〜800メートルも来たころ、異変は突然現れた。
突然、異常な破壊のあとが目に飛び込んできた。
ここまで水が来たのだろうか。
ちょうど祭りの神輿が通りかかった。
神輿担ぎ手たちも崩壊した家を見つめている。
港へ出た。
水没した桟橋
1969年、森進一が歌った「港町ブルース」は、北海道から鹿児島まで全国の港町を歌い込んだ歌詞で、ミリオンセラーとなった。その2番に気仙沼が登場する。この歌によって気仙沼の名は全国に知れ渡った。
港に立つ歌碑はゆがんでしまったが、なんとか踏みとどまっていた。
有名な酒屋男山本店はは1階と2階ががなくなっている。幸い工場が高台にあったため、必死の作業で、いち早く操業を再開したという。
この高さまで水が来たにちがいない。
繰り返し漂流物が衝突したのか。
コンクリートでも細い柱では支えきれなかったようだ。
凄まじい破壊力だ。
海上保安庁の舟だろうか。全焼。
鉄骨造は外壁は失われても骨組みは踏みとどまっている。
全体が水没して水たまりになっている。
鉄筋をさらけ出したコンクリート製の電柱。
ドラゴンレール大船渡線、鹿折唐桑駅へ向かうメインストリート。
道路の正面に立ちはだかる巨大な船。
港からここまで約800メートル、なぜこんな巨大な船がこんなところに。
このあたり一面火の海になった。すでに周囲の残骸は撤去されたようだ。
駅のホームから見ても、真っ正面だ。
第18共徳丸は気仙沼港でも特別大きな船として、港町の人々に愛されてきたものだったらしい。
他の小さな舟は港へ帰されたが、この船だけは動かすことができない。モニュメントとして残すか、撤去するか、この段階では決まっていなかった。
しかし、住民の反対論が強く、結局解体撤去された。
多くの車が破壊された。
しっかり造られた鉄筋コンクリートの建築は意外としっかり踏ん張っている。
倉庫だろうか。壁面が大きく破損している。鉄筋コンクリートでも薄い壁は破られている。
いくら排水しても水位はさがらない。
気仙沼のホテルはどこも満杯のため、船で大島へ渡り、高台に位置する旅館「明海荘」に一泊。このすぐ下まで水が来たそうだ。
ここには、被災地の後片付けのため、ボランティアで泊まり込んでいる女子大生らが大勢いた。学業を投げ出して、長期間ボランティアにのめり込んでいる女子大生も多く、自嘲気味の奇妙に明るい笑い声がまだ電力の乏しい薄暗い食堂に響いていた。
大島は気仙沼港の入口に位置し、天然の防波堤になっている。
このため、この島も高台以外はほとんどの建造物が大きな損傷を被っている。
港の桟橋も水没してしまった。
このあたり、港を取り囲む商店で賑わっていたはず。いまはなにもない。
ふたたび、桟橋のゆがんだままの気仙沼港へ戻ってきた。
地盤が陥没してしまったため、いたるところ水浸しだ。
木造の弱さをまざまざと見せつけられる。
気仙沼線南気仙沼駅の駅前広場の近くまできた。
このあたりは駅前の繁華街で、医院、スイミングスクール、車のディーラーなど多くの商店で賑わっていたらしい。
おおきなビルは駅前の「クリスタルビル」スナックや飲食店がたくさん入っていたらしい。
埋め立てによって造られた地区は地盤沈下して、水没してしまった。多くが水産加工関連の建物だったようだ。
バスターミナルの跡。
近くで見ると、さすがに目がくらむ。
気仙沼出身の歌人落合直文の歌碑。
気仙沼線南気仙沼駅前に立つ。
「砂の上に わが恋人の名をかけば 波のよせきて かげもとどめず」
明治33年、我が国ではじめて「恋人」の言葉を読み込んだ短歌と言われている。
残骸を運び出すトラックがひっきりなしに通る。
鉄筋コンクリートのこの小さな建築だけが、ほとんど無傷で残っている。
塗料という危険物を保管する塗料店は、厚い鉄筋コンクリートの壁で覆われ、窓もなく、入口も小さいので、ほとんど被害を受けなかったようだ。鉄筋コンクリートの強さを見せている。
小野寺塗料店は営業中だった。
このあたりのほとんどの建築が鉄骨造であり、骨組みは残っているが、外装は破損し無惨な姿を晒している。
「河北新報社」鉄筋コンクリート造、よく残ったものだ。
木造の弱さをみせつけられる。
自販機もこの有様。
魚市場
港の中心部に「気仙沼お魚いちば」がいちはやく開業し、賑わっている。
流されてきた船
コメントをお書きください