香川県文化会館を見る

香川県文化会館
香川県文化会館 設計:大江宏 1965(昭和40)年

高松市の目抜き通り、丹下健三の香川県庁舎の斜め前に、それは静かに佇んでいた。

どこにもないデザインである。しかし、当然のように街のなかに溶け込んでいた。

「香川県文化会館」とともに「香川県漆芸研究所」の看板も掛かっている。つまりここは香川県が県の重要な伝統工芸と位置づける「漆芸」の伝承、保存と展示の拠点でもある。

前庭に流政之の彫刻「おいでまーせ」

丹下健三の香川県庁舎(1958)が出来て、華やかな伝統論争がおき、丹下健三は縄文的な力強い造型に転換して倉敷市庁舎(1960)をつくり、さらに東京オリンピックのために代々木の総合体育館(1964)をつくったその翌年のことであった。つまり、県庁舎の7年後にこれができた。

大江宏はこの香川県文化会館を『新建築』に発表するに際して、「混在併存」という1文を添えた。

日本の木造の形をコンクリートで再現する香川県庁舎のデザイン手法が日本中に蔓延していた最中だったため、この香川県文化会館は大きな注目を集めた。

ここでは、コンクリートで木造を模倣するようなことはなく、木造は木造のスケールをもって使われていた。それは「人」のスケールであった。

県庁舎が巨大なピロティで、群衆を招き入れるような並外れたスケールを追求しているのに対して、ここではあくまでも人のスケールが使われていた。

県庁舎があくまでも、「民衆」「群衆」として市民を捉えていたのに対して、ここでは、市民は一人一人の「人」として扱われている。

「合わせ梁」、丹下健三と共通するデザインを発見。

しかし、ここでは、本来の木造のデザインとして使われていた。

「能」をはじめとする伝統芸能を発表できる舞台をつくって欲しいという、当時の金子正則県知事からの依頼によって、この文化会館がつくられた。

金子知事は丹下健三に相談し、丹下が大江宏を推薦したとも言われている。

大江宏は、当然、目の前の県庁舎を意識せざるを得ない。

丹下健三と大江宏、二人は、ともに東京帝国大学の建築科で同級生であったばかりか、二人は卒業時にともに「辰野賞」を受賞したライバルであった。

エントランス・ホールは木造のヒューマンなスケールで組み立てられていた。

コンクリートの硬い入れ物の中に木造が侵入している情景は当時も非常に新鮮だったに違いない。いまでは、木が落ち着いた飴色になってすっかり馴染んでいる。

50年を経た木の美しさが見事に輝いている。艶やかに輝いている木は「古さ」をまったく感じさせない

屋台のような木の造型は、ヒューマンでありながら、気品のある、見事に独特な空間を作り上げていた。

別冊新建築日本現代建築家シリーズ8『大江宏』より転載
別冊新建築日本現代建築家シリーズ8『大江宏』より転載

1階展示室・ホールの建設当初の姿。のびのびと広がった空間に大きな紙製のシャンデリアが下がっていた。

4階27畳の和室。左側の障子はホールの客席上部になっている。

障子を開けると、そこは舞台を見つめる特別席だった。

和室の床の間の反対側は仮の舞台になっている。

天井の板材のプロポーションが気になる。

和室に隣接する談話室

さらに奥には茶席も。

和室から見る舞台。

こじんまりとしたホールは、完全に和風の雰囲気だ。

50年たったこのホールはまったく古さを感じさせない、時代を超越した存在感を漂わせている。

県庁舎の大会議室もよく保存され、当初の面影をよくとどめていたが、あれはあの時代の刻印がはっきりと現れていた。ところが、ここは、まったく時代を感じさせない「新しさ」があった。

この作品を『新建築』に発表するに際して、大江宏は「混在併存」という1文を添えたが、そこで大江宏は「檜、杉・松などによる造作・部分・細部の建築的扱いをたんに私室的な特殊目的だけに限定する従来の観念を脱して、和風を社会的なオープンなスペースにまで普遍的に押し出そうと」したと書いている。

さらに、「スペースは”部分”の裏付けの上にもっぱら細部を媒体として人間の心や肌に深く通じ合うのである」「部分や細部の分厚さをもたないスペースはゴーストタウンのごとく…、…そらぞらしく、はかない建築である」と主張している。

おお! ここは「日本建築家協会」の25年賞の第1回目の受賞作品であった。

スクラップ・アンド・ビルドの嵐の中で、ここは大切に使われている優れた建築の見本として高い評価を得たのであった。

 

 目と鼻の先に建つ香川県庁舎と比較してみよう。

 設計者:丹下健三と大江宏、二人はともに東京帝国大学の同級生。さらにともに卒業時に辰野賞を受賞した秀才同士であった。

 丹下は広島平和記念資料館をはじめ、清水市庁舎、東京都庁舎とモダニズムの中に日本の伝統的な形や比例を導入して、世界に存在感を示した。その集大成が香川県庁舎だと言われている。そこには、高層の事務棟、低層の議会棟、ピロティ、広場と、異なる要素を巧みに総合し、市民に開かれた、民主主義の建築を実現した。それは丹下健三の代表作として、いまだに高い評価を受けている。

 一方、大江宏は、法政大学の一連の建築で、典型的なモダニズムから出発しながらも、日本の現実を直視した建築はいかにあるべきか試行錯誤を重ねていた。大江宏が文化会館を依頼されたのは県庁舎の8年後であった。東京オリンピックに向けて日本中が激動の最中という時代であった。

 大江宏が危惧していたのは、人がケージの中の鶏のように、顔を持たない数として扱われる時代の風潮であった。丹下の香川県庁舎がモデルケースとして、全国の庁舎建築がそのコピーのように造られていた時代であった。

 大江宏は建築界の中で孤立していた。モダニズムから離れ、和風、イスラムなどいろんな様式を自由に取捨選択する手法は理解されなかった。しかし、文化会館とともに発表された「混在併存」の主張は静かではあったが、共感をよんだ。とくに、若い建築家から歓迎され、丹下イズムの桎梏を超えるポストモダンの引き金になった。

 丹下健三が和風建築の形をコンクリートで形作り、世間を驚かせたのに対し、大江宏のコンクリートの箱の中に木造の和風をそのまま挿入する「混在併存」は、より日本の現実に寄り添った問題提起だったのである。

 

 高松市で接近戦を演じた丹下と大江は、生涯の最後に、場所を東京に移して大作を競い合った。

 

 丹下健三はやがて庁舎建築の集大成として新宿に「東京都庁舎」をつくり、議会棟、事務棟、広場と香川県庁舎の手法をさらに大規模に展開してみせた。新宿西口の超高層建築群を支配する堂々たる偉容であった。しかし、もはや「和風」は捨て去られ、ポストモダンの手法にすり寄ったデザインでまとめられた。

 大江宏は千駄ヶ谷に「国立能楽堂」をつくる。金属なのにまるで瓦屋根のような重なる甍の波、コンクリートの箱の中に木造の建築が挿入された、まったく時代を超越した、和と洋の競演であった。近代建築と和風という建築家を悩ませてきた難問に対する大江宏が生涯をかけて到達した解答であった。それは年来の主張であった「混在併存」の建築が見事に開花したものであった。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。