長野県安曇野市、JR大糸線穂高駅から徒歩10分ほどの線路際にある。
この地が生んだ彫刻家・荻原碌山(おぎわら ろくざん)の個人美術館である。
もっとも、碌山館は碌山美術館の一部、全体では碌山のほか当時の多くの芸術家の作品がいくつかの展示施設に展示されている。
まるでロマネスクの教会を思わせる控えめな佇まい。
煉瓦の壁が一面につたで覆われている。
つたの勢いがよく、建築の形がよくわからないほどだ。
本体の建物に煙突がつき、その前に玄関部分が出ていることはわかる。
横手に廻ってみると、煉瓦のアーチが連なっているのが分かって来た。
荻原碌山(1879明治12年〜1910明治43年)は、この地に生まれ、31歳の若さで亡くなった、天才的な彫刻家である。
碌山は読書や絵画の好きな少年であったが、この少年の才能が開花するには、ある人との出会いが必要であった。
この地の名家、相馬家に嫁入りしてきた女性、黒光である。碌山より3歳年上の相馬黒光は仙台出身であったが、東京で学び、文学や芸術に造詣が深く、豊かな教養を身につけていた。碌山はその黒光から芸術の知識を与えられ、みるみる目覚めていったのである。
若い碌山は、日本を飛び出し、ニューヨークでデッサンを学び、パリで彫刻にふれて、無我夢中で彫刻を学んだという。決定的だったのは、ロダンとの出会いであろう。
この頃、信州安曇野からは多くの若者が、近代の文明にふれて文学や美術に目覚め、刺激し合い、助け合って大きな渦ができていた。
一方、相馬黒光も上京し、新宿に中村屋を開くとともに、芸術家たちの支援にのりだした。
中村屋は当初パン屋であったが、月餅、カレーライスなど新商品を売り出し、喫茶部をもうけ、ここに、サロンを開設した。ここには、碌山を初め、高村光太郎、松井須磨子、会津八一ら多くの文学者、芸術家が集まった。
碌山はたちまちのうちに彫刻家としての才能を開花させ、ロダンを彷彿とさせるすぐれた作品を矢継ぎ早に送りだす。
設計を依頼された今井兼次は、日本近代建築のなかで比較することのできない極めてユニークな建築家である。
もっともよく知られているのは、ガウディの紹介者という役割であろう。1927(昭和2)年にサグラダファミリアの現場に踏み込み、担当者に話を聞いているのだ。ガウディはこの直前に市電に轢かれて亡くなっていたのが惜しまれるが、サグラダ・ファミリアの塔はまだ途中までしかできていなかった。
今井はこの時の旅行で、ガウディのほか、コルビュジエ、シュタイナー、エストベリーなど驚くべき建築家と面会し、作品を日本に紹介しているのである。
特にガウディは写真とともに建築雑誌に発表したのだが、まったく無視された。
ガウディが注目を集めたのは、それから40年もたって1960年代のことである。
1950年代、戦争直後の何もなかった時代、衣食住のすべてに事欠いたこの時代、人々が求めたのは、衣食住だけではなかった。
この時代、「藤村記念堂」(谷口吉郎)、「神奈川県立音楽堂」(前川国男)、「神奈川県立近代美術館」(坂倉準三)など各地に優れた建築が残されている。
「碌山館」もこれらと共通する建築の魅力がある。
しかし、この建築はいわゆる近代建築といわれるものとは随分異なるものである。鉄筋コンクリート造ではあるが、全面に煉瓦を貼り巡らして、むしろ、煉瓦造のロマネスクの教会堂のような雰囲気を漂わせている。
今井兼次は早稲田大学を卒業後一貫して早稲田大学の教員として教育に専念した。と同時に、精神性の高い優れた建築を残したことでもよく知られている。
しかし、もっとも記憶されているのが、日本にガウディを紹介し、自らガウディにならって長崎に「日本26聖人記念館」を設計したことかもしれない。そのほか、シュタイナーのゲーテアヌムを思わせる「大隈記念館」などもある。
碌山館には近代建築を思わせるような痕跡が一切ない。影響があるとすれば、エストベリーのストックホルム市庁舎の煉瓦壁かもしれない。
のちに今井は「エストベリの心に打たれた私には、一様に作られたれんがでは物足りない。」と書いている。
ここに使われている煉瓦は色も形もバラバラである。焼き過ぎた、色や形の不揃いな煉瓦を使ったのである。それが壁面に深い味わいを与えることになった。
今井兼次はガウディをはじめ、大きな影響を受けて作った作品が少なくない。しかし、にもかかわらず模倣という批難をあびることはほとんどない。
それは、今井の真摯な姿勢が徹底しているからであろう。どんな作品に際しても、全身全霊を捧げ尽くすような真剣そのものの打ち込み方が、安易な批判を受け付けないからである。
碌山館というこの小さな作品にも、そんな真摯な態度が浸透しており、なんど訪れても感動に包まれるのである。
合掌天使のハンドルは彫刻家の笹村草家人の制作。
碌山館は萩原碌山の作品を地元に残そうと考えた学校の先生たちの努力から始まった。作品の巡回展を行い、長野県内のすべての小中学校、高等学校の生徒たちの、5円、10円の寄付金をもとに作られた。
その際、アドバイザーとして東京芸術大学の助教授笹村草家人が呼ばれた。笹村は最後まで協力を惜しまなかった。
長野県内30万人の寄付金をはじめ、多くの人々の協力によって出来上がった。どんな小さな部分にも心がこもっている。
エントランスルーム
エントランスには小さな暖炉がある。ここの冬は寒いのだ。
この洞窟のような感じ、いいですね。近代建築には決して作れない空間だ。
展示室は小さなものだが、碌山の彫刻にはちょうどよい空間という感じがする。
力強い「坑夫」が天井の一角を見つめている。
鉄筋コンクリート造ではあるが、フラットな天井ではなく、山形になっているだけでじつに豊かな空間が出現している。
これが、ル・コルビュジエのいう通り、フラットだったら、なんとつまらないものになったことか。
ほんのちょっとしたことではあるが、近代日本の建築家のなかでこんな形を作った人はまずいない。みんなコルビュジエのアジテーションに乗せられて、頑に平らな屋根にこだわったためだ。
正面の壁面には、碌山の写真、年譜と粘土彫刻の道具が飾ってある。
ここにはステンドグラスを入れたかったが、予算がないので、油絵具で彩色したと今井は語っている。
碌山の庇護者、相馬黒光は、夫に裏切らせて苦悩する。碌山はそんな黒光に愛を告白するが…。
黒光をモデルにしたと思われる名作「女」。碌山はこの作品を完成後喀血し、しばらくして31歳でこの世を去る。近代彫刻の最高傑作と言われている。
文覚は鎌倉時代の武士であったが、絶世の美人だが人妻、袈裟御前に横恋慕し、ついに誤って殺してしまう。これを契機に出家したと言われている「文覚」におのれの気持ちを託したのかもしれない。
小さいけれどもリッチな空間である。
奥の部屋の小さな明かり窓。
極めて厳しい予算のなかで、地元の青年たちの労力奉仕をはじめ、多くの人々の協力で出来上がった珠玉のような作品である。
「この館は29万9千百余人の力で生れたりき」
何者にもかえがたい、心のこもった銘板である。
玄関に下がっているペンダントの釣り元のかざり。
装飾を排除するモダニズムと違って、ここには心のこもった装飾がいたるところに配置されて、心を癒してくれる。
ドアの釣り金具、普通は邪魔なものだが、ここでは装飾のように扱われている。
このキツツキのドアノッカーも彫刻家、笹村草家人の制作。碌山館の創設のために尽力したといわれている。
玄関ドアの工費は中村屋が出し、制作には信州大学教育学部が協力したことが銘板に刻まれている。碌山館ができたのは、黒光がこの世を去って3年後のことであった。
この角度から見ると、合掌天使の意味が分かる。
終戦の廃墟から立ち直り、やっと復興のきざしが見えて来た1950年代、日本の建築家たちが、機会があれば、喜々としてモダニズムの建築に走っていたとき、今井兼次は、まるで、流行に無頓着にロマネスクの教会のような美術館を設計していた。おそらく、当時は時代遅れとして嘲笑されたにちがいない。
しかし、そこに込められた熱い思いは、次第に人々の共感を集めていった。
1950年代の建築が次々に壊されてゆくなかで、碌山館はそんな流れとは無縁とばかりに悠然と構えている。
今井兼次という建築家の、時代を超越した存在感を体験することができる。
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pakin (日曜日, 21 7月 2019 16:41)
丁寧なご説明と写真、ありがとうございます。
tamasya (火曜日, 08 3月 2022 13:13)
私の二十代を開いてくれた碌山美術館。五十年を経て、PCから辿れば麗しの美少女黒光女史が現れました。なんと嬉しいことでしょう。当時、教会風であることの意味がわかりませんでした。このページで今井兼次さんの設計であること、お仕事ぶりを学ぶことができました。
そしてまた、おひとり碌山美術館で出会えた先人が増えこの美術館はこれからも人々を魅了し目に見えぬ糸は途切れないと思いました。
たくさんの写真もありがたくこころが満たされました。
ありがとうございました。