1950年代の建築がまた一つ消え去ろうとしている。
大江宏設計の「三木ビル」である。
東京駅八重洲口からほど近い昭和通りに建っている。
三木ビルは他のビルの間に挟まれているが、ひときわ瀟洒な姿を見せている。
鉄筋コンクリートの柱と梁を外部に現したファサードは他のビルとはひと味違うものであった。
1957年竣工のこのビルの設計は、大江宏にとっては、法政大学の55/58年館と同時に並行して進められていたことになる。
1957年といえば、ちょうど丹下健三が香川県庁舎を進めていたころと一致する。つまり、この時代、日本の建築界は近代建築にいかにして日本の伝統を表現するかに心血をそそいでいた時代だった。
ところが、大江宏のこのビルには、伝統建築の表現はカケラも見えない。
ガラス面を後退させて、柱の列を独立させたこの表現、柱の細さもあいまって、じつに颯爽(さっそう)としているではないか。
丹下が太く、雄々しい柱を追求していた時代にこのスレンダーな柱は特異だ。
側面と裏面はすでにシートで覆われていた。
この写真は2015年2月に撮ったもの。すでに取り壊しの方針は決まっており、内部は空っぽであった。
この書体、時代を感じますねえ。
許可をいただいてビルの内部を見せていただいた。
ホールの天井は、この時代を感じさせる表現となっていた。
1階の吹き抜けになった玄関ホールのタイルによる壁画。
都市の風景をデザインしたような壁画。大江宏のスケッチが残っているので、完全に大江宏のデザインである。
タイルが一枚ずつ異なる表情豊かなものだ。
すべて同形の正方形である。
天井の照明器具。当時はこういうデザインもよく建築家が自分で手がけることが多かったようだ。
階段の踊り場の間接照明。
室内はすでに、空っぽであった。
屋上のペントハウス。
屋上のほこら。これも大江宏の図面が残されている。
裏側に第二三木ビルを見下ろすことができる。
第一とはまるで異なるデザインであるが、同じ大江宏の設計である。
第一ビルが柱・梁のストラクチュアをデザインのモチーフにしていたのに反し、第二ビルは壁面に正方形のポツ窓で統一している。まったく異なる表現である。
いまは、こちらが本社ビルになっている。
1950年代、戦後の近代建築の勃興期、若い建築家たちのフレッシュな挑戦が見てとれる、50年代は極めて重要な時代だが、強度不足などを理由に、いま、それらの作品が次々に壊されようとしている。
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