軽井沢でこれほど親しまれている建築はない。
優しく、可愛らしい、それでいて、わざとらしさはない。
きりっとして、美しい。
今年で築後86年目となる木造建築だが、どこにも支障無く立派に建っている。
鉄筋コンクリートの建築が50年ほどで、耐震性だとか、耐久性とか理由をつけて次々に壊されているのに、この簡単な木造建築がびくともしないのは驚きだ。
この教会を設計したのは、アントニン・レーモンド、1888年(明治21年)チェコ生まれ、チェコで建築を勉強したあと、アメリカへ移住し、フランク・ロイド・ライトの事務所に入り、1919年31歳のとき、帝国ホテルの建設のため、ライトの助手として来日した。
来日後、3年ほどでライトのもとを離れ、レーモンド設計事務所を開設。
太平洋戦争のため日本を離れるまで18年間、精力的に設計を進め、多くの非常に優れた建築を実現した。
当初はライトの影響の濃いものであったが、やがて、鉄筋コンクリートによるモダニズムの建築を会得し、世界でも最先端の近代建築をつぎつぎに完成させた。
その範囲は住宅、大学、教会、工場と幅広く、自邸をはじめ、東京聖心学院、聖路加病院、アメリカ大使館、フランス大使館、東京ゴルフクラブ、オーチスエレベーター工場、東京女子大学と目覚ましいものであった。
こういった鉄筋コンクリートによる近代建築に対して、注目したいのは、杉丸太を使った「軽井沢の夏の家」と「軽井沢聖ポール教会」という非常に簡単に作られた木造建築を同時に作っていることである。
軽井沢の夏の家は、ル・コルビュジエが鉄筋コンクリートで作ろうとして、図面を発表していたものをそっくり木造で作ったものだが、そのため、コルビュジエと一悶着あったが和解したイワクツキの建築だが、最後には、コルビュジエもレーモンドの巧みなアレンジに脱帽したものである。
夏の家は、壊される運命にあったが、この建築を愛する人たちの努力で保存され、「ペイネ美術館」として公開され今も親しまれている。
レーモンドは来日以来、日本の大工の技術に感銘を受け、その技術力を高くかって、その力を発揮させて、生かしてきたといわれているが、とくに木造の建築では、簡単な図面だけで大工にまかせることが多かった。
この教会について、のちにレーモンドは「建てはじめる前に、私は簡単なスケッチしか作らなかった。その上、実際には何の詳細図もないまま仕事がすすんだ。完成してから実測図を作ったが、そのプロポーションには驚かされた。」「大工は近くの日光の住人であった。彼らは仕事の間、その現場に住んでいた。」とさらりと書いている。
この教会、改めて見ると実に不思議な形である。
十字架の下に尖ったピラミッド、タマゴ形、大小のピラミッド、上に絞った四角、そして本体の屋根がまたピラミッドそしてガラス窓そして板張りの壁。
こんな建築は見たことがない。
藤森照信によれば、レーモンドの故郷、チェコのボヘミア地方の教会のスタイルだそうである。
そう、レーモンドはチェコの北西部ボヘミア地方の出身jなのである。
昔から故郷のない、楽天的な芸術家を「ボヘミアン」ということがあったが、まさにレーモンドが典型的なボヘミアンかもしれない。
太平洋戦争をはさんで10年ほど日本を離れてアメリカで暮らしたが、戦後再び来日して、高齢のため引退するまで、こんどは26年間日本で建築家として活躍した。
終戦直後、日本がまだ焼け野原のときに再来日し、リーダーズ・ダイジェスト東京支社の颯爽とした建築で、打ち拉がれていた日本の建築家たちに衝撃を与えた。
その後、教会、大学、音楽堂など目覚ましい建築で戦後の日本建築に大きな足跡を残した。
しかし、ここでも注目したいのは、戦後も、杉丸太を活用した魅力的な木造建築を数多く残していることである。
レーモンド自身の自宅とスタジオ、軽井沢のスタジオなどが代表作である。
興味深いのは、レーモンドは日本の大工の技術を生かして作ったが、決して日本の伝統建築をそのまま模倣しようとはしなかったことである。
レーモンドの木造建築は、まったく独創的な建築だった。
よく見るとじつに不思議な建築である。
ピラミッド型と見えた屋根もよく見ると、微妙に湾曲している。
教会としてもあまり見たことのない建築だ。
しかし、必要な部分には庇がつけられて、建築をしっかりと保護している。
どこか親しみやすい不思議な魅力がある。
内部は、丸太の木材が交差する不思議な構造がそのまま露出していた。
珍しい梁だが、大きな空間を支えるため、ハサミを開いたような斜めの梁を交差させたものでシザーストラスというらしい。交点はX形の金属が補強している。
栗材をちょうなで粗く削ったものだが、じつに大胆で率直な構造である。
垂直、水平を原則とする日本建築とはちょっと感覚がちがう。
むしろ、民家に近い。
先のほうで次第に絞っていくとまるでHPシェルのような曲面になっており、それが、屋根の不思議な曲面に現れていたことがわかる。
それにしても簡単な構造だ。
後ろを振り向くと、パイプオルガン。2階へ登る丸い階段が見える。
照明器具は無骨ながら、率直なデザインだ。
鉄筋コンクリートの鐘楼。
大小のピラミッドと卵形を重ねたユニークな尖塔である。不思議なデザインだが、軽やかに上空へ伸びてゆく尖塔の姿、これが実にいい。
整理してみると、レーモンドは次のような生涯を送った。
1888(明治21年)チェコに生まれる。
1910(明治44年)22歳、アメリカ移住。
1919(大正8年)31歳、来日
1937(昭和12年)49歳、戦争のため離日
1948(昭和23年)60歳、再来日
1973(昭和48年)85歳、引退のため離日、アメリカへ
1976(昭和51年)88歳、没
つまり、戦争のためアメリカで過ごした10年以外はほぼ日本で建築家として生きたことになる。戦前18年間、戦後26年間、合計44年間にわたって日本で建築家として活躍したのである。
来日まで日本となんの関わりもない外国人がなぜこんなに日本で大活躍できたのだろうか。故郷を捨てたボヘミアンであったこと。古き良き日本に接して感激し、日本を深く愛したこと。レーモンドが来日した大正時代のなかばには、ヨーロッパやアメリカで失われてしまった近代以前の社会の典型的な姿が日本には残っていたのである。
レーモンドはさらに大きな幸運に恵まれた。彼の来日したのは、第一次世界大戦の終戦直後であり、ヨーロッパは疲弊のどん底で喘いでいたにも関わらず、日本はほとんど戦争の被害を被らず、繁栄を謳歌していた。ちょうどその時故郷のチェコスロバキア共和国が独立し、祖国から日本における名誉領事の指名を受けたのである。
外交官の肩書きを得たレーモンドは、宮中の園遊会や上流階級のパーティーに参加する機会を得、各国の外交官や日本の上流階級の人々と触れ合う機会に恵まれ、多くの仕事を獲得する機会を得たのである。アメリカ大使館、フランス大使館、ソヴィエト大使館、東京ゴルフクラブ、東京女子大学など、優れた作品を残したのはそのためだったのである。
日本で活躍した外国人建築家は、何人かはいるが、戦前から戦後にかけてこれほど活躍した人はいない。しかも、レーモンドは前川國男、吉村順三など、多くの日本人建築家を育てた。直接、間接に日本の近代建築に与えた影響は計り知れない大きなものがあったのである。
またその時代が絶妙であった。ヨーロッパで近代建築の大きなうねりが起こり始めていたちょうどその時だったのである。ヨーロッパは極端に貧しく理論だけが先行していたモダニズムをレーモンドは真っ先に日本で実現してしまったのである。
軽井沢の聖ポール教会は、それらの大作の中では、ほとんど取るに足らないほど小さな作品である。にも関わらず、そこにはレーモンドの優れた才能がいかんなく発揮され、じつにレーモンドらしい魅力的な建築となっている。
参考文献
『自伝アントニン・レーモンド』(新装版)鹿島出版会、2007
関連項目