アントニン・レーモンドは、戦前18年、戦後26年、合計44年の在日期間の間、建築家として絶えず設計を続け、戦前は20人、戦後は50人以上の所員を抱えていたから、膨大な建築を日本に残した。
住宅、教会、大学、大使館、ゴルフクラブ等々、大変な数の建築を設計し、今も残されているものが少なくない。
戦前の鉄筋コンクリートの建築は、世界の近代建築の歴史の中でも先駆的な作品も多く、高く評価されている。
戦後も大学、教会、体育館、音楽ホールと多彩な建築を作り続けたが、その中でもっとも魅力的で、優れた建築は、と聞かれれば、私はためらうこと無く「レーモンド自邸」と答えたい。
レーモンドは自邸を2度建てた。1回めは戦前鉄筋コンクリートで建て、世界の近代建築の最も先駆的なお手本と言われている。いわゆる「霊南坂の自邸」である。2度目は戦後再来日したあと西麻布に木造で、一つの敷地に事務所と自宅を並べて建てたものだ。
自宅の他にも軽井沢に山荘、葉山に別邸を建てている。
魅力的なのはこの西麻布に建てた木造の自邸である。
木造、片流れの平屋という極めて単純でローコストな建築である。
残念なことにこの自邸と事務所は失われてしまったが、そのコピーが二つ残されて公開されている。
住宅のコピーが残されているなんて他では聞いたことがないが、1951年にレーモンドが自邸を建てると、親しくしていた高崎の井上工業の社長、井上房一郎が自宅が火事でなくなってしまった、レーモンドの自邸が気に入ったので、これをこのままコピーさせて欲しいと頼み込んだという。
レーモンドは快諾して図面を提供すると、井上は自社の大工を派遣して隅から隅まで実測して、そっくりな井上房一郎邸を高崎に建ててしまった。
ただし、既存建築との接続を考えて東西を逆にしたという。
南側は一直線のガラス窓、すごく単純な建築だ。
この井上房一郎邸が、高崎の美術館の一部として残され、公開されている、というより、井上房一郎没後、売りに出されていたものを市民がお金を出し合って買い取り、そこに美術館を建設したという経緯である。
だから、高崎市美術館へ行けば、レーモンド自邸を見ることができるというわけである。
つまり、井上房一郎のおかげで、我々はレーモンドの住宅を体験することができるというわけである。
1m65cmという深い軒が一直線に伸びているが、軒先に雨樋がなく、そのかわり軒下に落ちる雨水を受けるため30cm幅に那智黒石を敷いた。軒樋が無いため、軒先がスッキリとしている。
レーモンド自邸では、この窓先の庭にプールがあった。
軒先のテラスは1.5mの幅があるが、丹波石を張りつめてある。レーモンドはここに椅子を出して庭を眺めることを好んだという。
全面透明ガラスの窓は柱の外に連続して走り、その内側に障子が入っている。
レーモンドは、障子の効果を大変高く評価していた。明かり取り、断熱効果などが優れているとして住宅の設計に積極的に取り入れた。
南側一直線の窓に一部切り込みがあり、ここが入口になっていたが、ここをパティオと称して、食事は必ずここで取ったという。
つまり、ここがレーモンド夫妻の食堂であった。この上には屋根がなかったので、雨が降ると食事の途中で、テーブルを左奥に見える寝室に移動して食事を続けたという。
調理は専属の調理士がなかば住み込みで全部作っていた。
レーモンド夫妻の食事風景を撮った珍しい写真だ。
レーモンドとノエミ夫人そして飼い犬。
頭上には藤が茂っていた。
レーモンド設計のインテリアはノエミ夫人が必ず担当し、壁紙、カーテン、家具などを製作した。
井上房一郎邸ではパティオの上はガラスが貼ってあるが、レーモンド自邸は藤がからんでいただけで、抜けていた。
この写真はこの建築の構造をよく語っている。
杉丸太の柱と梁、斜めに支える丸太二つ割りの挟み梁等、基本的な構造は杉の間伐材の皮を剥いただけの極めて安価な材料だった。
これが出来たのはレーモンド自邸の翌年1952年だが、この頃、日本の建築現場では足場として杉丸太がさかんに使われていた。
今は鉄パイプの足場が普通だが、それまでは、杉の間伐材の皮をはぎ縄でしばるのが普通であった。
レーモンドはこの自邸を作るに際して、使い終わって解体破棄される建築現場の現場小屋の材料を貰い受けて作ったと言われている。
レーモンドは日本人の自然と一体化した生活を心から楽しもうとしていた。
日本人はこんな食事の仕方はしないが、レーモンドの日本愛がこんな生活スタイルを生んだ。レーモンドはこの生活スタイルを最後まで貫いた。
この部屋が寝室だが、雨の日の食堂にもなった。
この部屋は住宅としては居間であるが、レーモンドはここで仕事をしていた。デスクで設計や手紙を書いたりした。また、来客もここに通し、客は庭のよく見える席に誘導したという。
構造はすべて杉丸太、柱も登り梁も、斜めの方杖は丸太の半割り材をボルトで留めている。
壁は3.6mmのラワンベニア板を真鍮の釘で打ち付けただけのものだった。
部屋の中央に暖炉、空中に冷風用のダクトが走っている。
北側の廊下の上に障子の明かり取りが入っている。
レーモンド自邸の北側に平行して設計事務所が建っていたが、構造は住宅とまったく同じものだった。
鉄板の溶接で作ったシンプルな暖炉。暖房はこれ一つ。
レーモンドは、日本の住み方を取り入れ、自然と一体化した住み方を愛した。
大きなガラス窓や障子はそれをよく表現している。しかし、レーモンドは、靴を履き替えることはなく、室内でも靴履きで通した。そこだけが日本人と違うところだった。
浴室も日本式の小さな浴槽に入ったらしい。
日本人にとっては、木造といえば、従来の建て方しか思い浮かばないが、レーモンドの目には現場の丸太小屋が非常に新鮮に映った。
日本人には丸太小屋に住もうという発想は出て来ないが、レーモンドはこれをおもしろがって、自宅を建ててしまったほか、頼まれた住宅にこの構造を自由に応用した。来客には必ずこの構造がいかに優れているか、丸太をなで回しながら自慢していたという。
井上房一郎は、高崎の井上工業の代表者だが、父親から会社をまかされると、芸術の保護を積極的に推進しはじめた。1933年に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウトを保護し、高崎の少林山に住まいを建てて住まわせ、自社の工芸作品の指導を依頼したりしていた。レーモンドとも面識ができ、自宅のコピーを依頼したのは前述の通りだ。
井上は高崎市の音楽活動の支援にも熱心に取り組み、群馬交響楽団を育て、群馬をもっとも先進的な音楽活動の県に育てた。1961には県民の熱望を後押しして群馬交響楽団の拠点として群馬音楽センターの建設を進めたが、設計者にレーモンドを指名したのも井上だ。
群馬音楽センターは画期的な鉄筋コンクリートの折版構造で完成したが、この工事を請け負ったのは井上工業だった。
夏はガラスと障子を開け放し、風を通したが、突然の雨には、所員が屋根に駈け登ってガラス戸を閉めてまわったという。
居間の断面図。
右側が南。左側は北なので、北の高窓から柔らかな採光を考えている。傾斜した2枚の屋根を斜めの挟み梁が支える構造になっていることがよく分かる。
西麻布に建っていたレーモンドの自邸と設計事務所。
北側の事務所と南側の自邸が中庭を挟んで並行して建っている。
自邸の南には庭があり、その真ん中にプールがあった。このプールでノエミ夫人が泳いでいたのを目撃した所員の思い出を読んだ記憶があるが、はっきりしない。
井上房一郎邸では、絨毯ばりになっているが、レーモンド邸ではリノリウムで靴のまま生活した。
日本人の住み方を愛し、日本的な住み方を通したが、室内で靴を履くという習慣までは捨てなかったわけだ。
足元までガラスの窓は欧米にはなかったものだが、レーモンドは積極的に採用したばかりでなく、この作り方を欧米に紹介し、普及させた。
洋風でもあり、和風でもある。
レーモンドが創造した独特の空間だ。
作り付けの家具だ。日本的だが、やはりレーモンドのデザインだ。
井上房一郎邸の見取り図。
じつに単純なつくりだった。
毎日ここで食事をしたというパティオ。じつに興味深い空間だ。
パティオの横にある寝室。右側に見えるソファを引き出すとベッドになる。
普段はプライベートな居間のような部屋だったようだ。
前述した通り、雨の日にはここに食卓を運び込んで、食事をしたという。
レーモンド邸には畳の和室はなかったが、井上は夫人の希望で和室を作ったらしい。
和室も構造は杉丸太。
床の間もある。
レーモンドは、すでに戦前、鉄筋コンクリートによる自邸「霊南坂の自邸」を建て歴史に残している。
にも関わらず、戦後、再来日して建てたのがこの杉丸太の住宅だったのである。レーモンドは建築現場の小屋が解体処分されるのがもったいないからもらってきて建てたと言っているが、決して行き当たりばったりに建てたものではなく、長い経験に基づいて、確信をもってこの作り方を選択し、実行にうつしたに違いない。
戦後26年間、貧しい時代に建てたとはいえ、豊かになっても建て替えようとはせずに住み続けたのは、この住宅に満足し、愛していたからに違いない。
日本の風土、住環境、住まい方をよく経験し、考え抜いた末に、決断したのが、鉄筋コンクリートではなく、木造だったのである。
これは、われわれ日本人にとっても、非常に示唆に富んだ決断なのではないだろうか。この住宅から学ぶものは決して少なくないのではないか。
その価値を一目で見抜いた井上房一郎の眼力も並のものではない。
最後に興味深い画像を一枚。
「人生フルーツ」という自然とともに生きる高齢の夫婦の生き方を描いた映画が日本中の小さな映画館で上映され、静かな感動を巻き起こしているが、その一場面。
なんとその住まいが、レーモンドの自邸にそっくりなのである。それもそのはず、そこに描かれているのは、かつてレーモンド事務所に在籍した建築家津端修一の晩年の姿なのである。
津端修一は、東京大学の建築学科を卒業後レーモンド事務所に勤務したのち、住宅公団に入り、初期の大規模な公団住宅の開発を手がけ、最後には愛知県春日井市の「高蔵寺ニュータウン」を手がけた。津端は起伏のある豊かな自然を生かして自然環境の豊かさを楽しめるニュータウンを夢みて計画を練ったが、当時の公団は経済と効率を最優先する思想でばく進しており、津端の提案は無視され、広大な敷地はずべてブルドーザーで平坦に均され、表情のない均等な住宅で埋め尽くされてしまった。
津端は深く失望したが、その一角の分譲宅地を購入し、自分の理想とする生き方を実践した。
残された丘にドングリを植えて、ドングリ山を再生し、自宅の庭を果樹園として自然とともに生きたのである。その様子を取材した東海テレビが映画に纏めたのが、前出の「人生フルーツ」。
その住宅がレーモンドの自邸とよく似ているのは、津端が若い日に受けたレーモンドからの教えをここに生かしたものだったからである。
レーモンドが蒔いた種が方々で発芽しているのかもしれない。
関連項目
参考図書
『自伝アントニン・レーモンド』三沢浩訳、鹿島出版会、2007年
『おしゃれな住まい方 レーモンド夫妻のシンプルライフ』三沢浩著、王国社、2012
『A・レーモンドの住宅物語』三沢浩著、建築資料研究社、1999年
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藤田尚宏 (土曜日, 14 8月 2021 17:20)
世田谷区役所の建て替えを嘆く友人とLINEで話しているときに、近くのレーモンドの教会の話題になり、一緒に貴サイトをあらためて拝見しました。
高崎の音楽堂が世田谷区民会館と似ている理由が分かりました。
それにしても、建築にはいろんな人生の示唆がありますね。
勉強になりました。