左が皇居。
右が丸の内のオフィスビルの街並み。
間がお濠(ほり)。
右の街並みは、奥の方が大手町、東京海上ビルのレンガ色のタイル、白い郵船ビル、高い三菱商事、赤い岸本ビル、そして一番右のビルが明治生命館。
東京でも最も美しい景観に恵まれた一等地である。
明治生命館の全景。
後ろの超高層ビルは、手前の明治生命館を完全保存する方針の元、その余った容積を利用して建てた三菱地所の明治安田生命ビル。保存と開発がセットになって行われた。
重要文化財として保存された明治生命館を圧倒する巨大なビルだ。
明治生命館。
設計:岡田信一郎。
竣工:1934(昭和9)年
すでに、世の中は、近代建築(モダニズム)の時代に突入していた。
しかし、岡田は明治時代以来、とうとうと学び吸収してきた西洋の様式建築を極め、その最高峰を築いて見せた。
実は、鉄筋コンクリートの8階建てのオフィスビルなのだが、石造のベース、ギリシャ神殿の柱が支える中央部分、そして柱が支える上層部となっている。
ルネッサンス以来の3層構成。
古典的な文法に則りながら、現代のオフィスビルを見事に作って見せた。
「アメリカ人が設計施工した三井本館に対抗し、さらに追い越そうとした力作。建築論と様式設計に抜群の才能を示した岡田の遺作である。西洋様式を西欧的レベルでマスターするという明治建築の目標は、この建築で達成された。この建物の持つ落ち着きとゆとりは、それまでのいかなる建築にも見られなかったものである。」(桐敷真次郎『明治の建築』昭和41年)
近代建築の研究者、桐敷真次郎のこの一文によって、明治生命館の評価は決まった。
この柱、ギリシャ神殿の柱をもとにしたもの。
ギリシャ神殿には、ドーリス、イオニア、コリントと3種類の柱があるが、それらを融合し、さらに複雑優美に作ったのはローマ人、コンポジットという様式である。
この時代(大正から昭和初期)アメリカで大流行した、銀行建築のスタイルだ。日本でも各地に銀行、保険会社などがこのスタイルで作られた。
その最高傑作がこの明治生命館だ。
あっという間に日本でこんな彫刻(柱の上部、柱頭という)を作ってしまったのも驚きだ。
当時の大学の建築学科の授業では、こんなデザインをフリーハンドで描けるまで訓練を積み重ねた。
こんな作業を楽しげにマスターした人と、逃げ出して、シンプルなモダニズムへ走った人とがいた。
この道を歩くと、まるでロンドンかパリの街を歩いているみたいだ。
石の存在感、ランプの雰囲気、まるでヨーロッパだ。
実はこれを設計した岡田信一郎はアメリカにもヨーロッパにも行ったことがない。全ての知識は本から得たものだった。
正面玄関だ。
岡田信一郎は明治16(1883)年生まれ。学生時代からよく勉強し、才能に恵まれていたが、誰に対しても遠慮なく言いたいことをいうので、「口の悪い岡田」というのが定評だった。しかし、面と向かっては非常に厳しい批判をするが、本人のいないところでは決して悪口をいうことはなかった。
そんな人柄はみんなに愛され、人気があった。
アーチ型の窓が続いている。
研究熱心だったので、本当は研究者を目指していた。
しかし、岡田が目指していた当時、関東大震災の後の東京大学は、構造系の学者たちが支配する体制になっており、デザイン系の岡田の入る余地はなかった。そこで、東京美術学校(現・東京藝術大学)の講師、のち教授となり、さらに早稲田大学の教授も勤めた。
窓の下半分は防犯のため、金属のグリルが嵌っている。
岡田はふとしたきっかけから赤坂の花形芸者「満龍(まんりゅう)」と結婚することになってしまった。
岡田が遊び人だったわけではない。岡田の友人が身請けした満龍が連れ合いの死をきっかけにして売り食いをするほど困窮しているのを見かねて助けているうちに親密になってしまったのである。
これを聞いた岡田の母親は卒倒するほど驚き、3日間眠れなかった。
その金属のグリルが美しい。
しかし、さすが、母親は覚悟を決めると、満龍に家庭婦人の心得を教えこみ、満龍、本名、田向静を迎え入れた。
この件は、東京朝日新聞の紙面の半分を使って大きく報道されるほど世間の注目を集めた話題だった。
岡田も美男子だったから、銀座を人力車で走っていると、岡田の方が人気があったというほどだった。
岡田が東京帝国大学から拒否された理由の一つは、この結婚問題もあったと言われている。これを理由に関係を絶った友人もいたというほど、周辺を困惑させたらしい。
静は結婚後は、賢夫人として多忙な岡田をよく支えた。岡田の死後も、建築学会の会合へ出て務めを果たしたと言われている。
岡田にとっても、この結婚は大きな転機となった。
岡田は、これをきっかけに研究者の道を断念し、建築家への道をまっしぐらに進み始めるのである。
岡田が設計した建築の数は数えきれないほど、しかも才能の溢れるままに設計したから、その種類も多彩極まりない。
岡田は洋風から和風、住宅から劇場、美術館、なんでもこなす多才な建築家だった。
アーチ窓の上部に施された繊細な石の装飾。
岡田の設計した建築のうち、いまも残っているものは、
ニコライ堂
(始めコンドルの設計でできたが、関東大震災で崩壊、岡田が設計して立て直した。これが現在のニコライ堂だが、コンドル設計のものよりはるかに優美だ。)
歌舞伎座
(近年建てなおされたが、正面の大きな唐破風を始めとするデザインは岡田の設計したものをそのまま踏襲している。唐破風をこれほど大胆にデザインした建築家はいない。)
鳩山邸
(当初、鳩山は他の建築家に依頼して設計を進めていたが、中学時代からの親友だった岡田がなぜ俺に頼まないんだとねじ込んで横取りした。しかし設計料は取らなかった。)
などがある。
正面の玄関。安田生命と合併したので、「明治安田生命保険相互会社」と書かれている。
この当時、建築学科を卒業した優秀な学生は、必ず欧米へ視察旅行に出た。
ギリシャへ行きパルテノン神殿を見る。パリ、ノートルダム教会を始めとするゴシック建築を回る。イタリアでは、ルネッサンスからバロックの建築群を見て歩く。
これは建築家になるための定番のコースだった。
しかし、岡田は体が弱く、海外へ行くことができなかった。
家が貧しかったから、とも言われている。
そのため、全ての知識は本から得たものだった。その代わり膨大な読書量だった。
教え子が外遊する前には、どこを見るべきか、岡田は詳細な指示をしていた。
横の通用口には「明治生命館」と右から書かれている。これが、竣工時からのものであろう。
岡田の最後の仕事が、この明治生命館であった。
この設計を進め、工事も進む中、ついに病が進行し、病床につき、現場へ出ることができなくなってしまった。
岡田は、映写機を求め、16ミリフィルムで現場の様子を細かく撮らせて、病床から細かく指示をした。
昭和7(1932)年死去。
享年50。早すぎる死だった。
明治生命館は、その2年後に完成した。
病弱な岡田を助け、竣工まで導いたのは、11歳下の弟、捷五郎。
岡田の死後、岡田事務所を引き継ぎ、東京美術学校建築科の講師、のち教授となって後進の建築家を育てた。
岡田の才能は、早くから知れ渡っていた。
大学卒業後まもなく、大阪市中央公会堂の設計コンペがあった。
辰野金吾が審査委員長となり、建築界の主だった実力者17名を指名して案を募集した。その中に、未経験な若者岡田信一郎を加えておいた。
審査の結果、1席を取ったのは、未経験の29歳の岡田信一郎だった。
中央公会堂は岡田の案に基づき、辰野金吾が手を加えて完成させた。今も大阪を代表するモニュメントとして親しまれている。
ライトを支える支持材。
細部まで決して手を抜かない。この丁寧な仕事が全体の圧倒的な存在感に寄与しているのだろう。
ドアの装飾。
明治生命館は公開されており、2階を回って見学することができる。
2階の吹き抜けを回って廊下が一回りしており、ここからいろいろな部屋を見学することができる。
1階は今も営業室として使われている。
天井の詳細。
並んだライトが美しい。
会議室
この建築は、第二次世界大戦の終了後、昭和20年8月に連合軍に接収され、最高司令官の諮問機関として米・英・中・ソの4カ国の代表による対日理事会が設置され、21年4月5日、第1回会議がここで開かれた。連合国最高司令官のマッカーサーが演説を行い、その後、対日理事会は2週間に1度開かれ、サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQが廃止される昭和27年まで、164回も開かれた。
実に記念すべき部屋なのである。
食堂
食堂のマントルピース
応接室
応接室のマントルピース
応接室
1階と2階を結ぶ階段
明治生命館は、昭和の建築で初めての重要文化財である。当時の社長の強い意志によって、重要文化財としてこのまま保存することが実現した。
丸の内の建築の中で、これだけ完全に保存が実現したものはない。
非常に貴重な建築である。
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まっちゃん (水曜日, 04 1月 2023 18:21)
東京に住むものです。今回のブログを読んで、時間のとれる正月休みに建物を観に行ってきました。外観も内観も圧倒されました。館内で上映されている建築時の映像に見入ってしまいました。多くの人がこの建物の実現に向けて汗水垂らして(まさにこの表現がぴったり)作り上げられたのですね。戦後GHQの本部になっていた会議室、食堂、サロンなど、想像するとドキドキしてしまいました。
当時の安田生命株式会社って本当にお金を持っていたんだな、などとも。
記事を頼りに建物探訪、私も楽しませていただきました。
ありがとうございます。
今後も興味深い記事を楽しみにしております。
yoshi (火曜日, 28 2月 2023 12:38)
筆者は講演で丹下と前川の大きな違いのひとつに「海外留学」の経験を挙げておられた。この建物を描いた岡田も海外には行ってない。がしかし、筆者曰く、海外情報の恐るべき探求力をまざまざと知ることにより、この建物の素晴らしさと気概を一層感じさせられた‼️
若し,、、、岡田が竣工式に出席して、演台に立って何を話しただろうか⁉️,、、、興味が募ると同時に胸が熱くなる。