大阪の政治・経済の中心地、中之島に立つ「大阪中央公会堂。
大阪を代表するモニュメントだ。
中央に聳え立つ大きな半円形のアーチが特徴だ。
アーチはレンガの赤と大理石の白が交互に混ざって、嫌でも目につく印象的なデザインになっている。
大阪人が誇りにしている公会堂。
この建築のきっかけを作ったのは一人の大阪人だった。
岩本栄之助(1877〜1916)という株の仲買人である。
岩本は、両替商岩本商店の次男として生まれたが、大阪市立商業学校を卒業し、日露戦争に従軍して、除隊後、株の仲買人となる。
明治39年の株式の暴騰時に、全財産を投げ出して、売り方に転じて、仲買人仲間を支え、その直後の大暴落によって莫大な利益を得て、「北浜の風雲児をもてはやされた。
明治42年、渋沢栄一が率いる「渡米実業団」に加わり、アメリカでは、富豪が公共事業に資材を投じて社会に貢献していることを知って感銘を受け、帰国後、父の遺産に自分の財産を合わせて、百万円を大阪市に寄付した。
これは、今の価値で、50億円くらいと言われている。
大阪市は岩本の希望を汲んで、市民のだれでも利用できる公会堂を作ることに決定した。また、作るからには、日本中でどこよりも優れた建築にしようと、建築顧問に建築界の第一人者辰野金吾を迎え、設計は「懸賞金付きの設計競技(コンペ)」とし、大正元年当時、実力、実績の豊かな建築家17名を指名した。その中に、実績はないが、優れた若者を一人忍び込ませたのは、辰野だった。
その結果、29歳の若者、岡田信一郎が一席を取って世間を驚かせた。しかし、実施設計は、辰野が片岡安(かたおか やすし)(1876〜1946)を使って進めたため、辰野式のレンガと花崗岩の色合い強くなったが、正面上部の大きなアーチをはじめ、全体のデザインは岡田の案そのままである。
辰野金吾は東京にも大阪にも設計事務所を作って拠点を構えたのだが、東京で組んだのは葛西萬司で、大阪で組んだのが片岡安だった。ともに東京大学建築学科で辰野の教えを受けた教え子だ。
片岡は辰野より22歳若かったが、精力的に仕事をこなし、まだ設計に対し対価を払う習慣が定着していなかった大阪で、猛烈な仕事ぶりを見せて、施主に設計料を認めさせた。
後年、「お前たちが建築設計で生きていけるのは、だれのおかげだと思っているんだ」と啖呵を切ったが、それだけの努力を惜しまなかった。
また、東京の建築学科に対して、大阪の建築家をまとめて日本建築協会を組織したり、都市計画の必要性を説くなど、大阪の建築家の先頭に立って活躍した。
第一次世界大戦が始まると、岩本は暴落を予測して売り続け、予想に反して莫大な損失を出してしまう。
周りからは、大阪市から寄付金を少しでも返してもらえと助言されたが、「一度寄付したものを返せなど、なにわ商人の恥」として大正5年10月27日ピストル自殺を遂げる。皮肉なことに12月には岩本の予想通りに大暴落したが、手遅れだった。
岩本栄之助は義侠心に富み、人望があった。
享年39。早すぎる死だった。
中央公会堂が竣工したのは、大正7年(1918年)岩本の死の2年後だった。
大、中、小の集会室を備え、大集会室では、ヘレン・ケラー、人類初の宇宙飛行士ガガーリン、物理学者アインシュタイン博士らの講演会のほか、ロシア歌劇団の「アイーダ」イタリア歌劇団の「椿姫」の公演などが行われ、市民に親しまれてきた。
2002年、市民の寄付を得て、耐震補強と全面的な保存・再生工事ののちリニューアルオープンし、同時に近代建築として高い価値を評価されて、重要文化財に指定された。ちなみに岡田信一郎は、東京丸の内の明治生命館と共に、両都市に重要文化財の建築を残すことになった。
中之島は、北は堂島川、南を土佐堀川に挟まれた中洲で、日本銀行、中之島図書館、大阪市役所などが建つ大阪の政治と経済の中心であるが、その正面に大阪の文化を象徴する中央公会堂が華やかな姿を誇っているのは見事である。
3階特別室(元の貴賓室)のステンドグラス。
外観からも見えるアーチの中のガラス窓である。
ステンドグラスは、大阪市の市章澪標(みおつくし)を二羽の鳳凰が取り囲んだ意匠になっている。
特別室の天井。イザナギ、イザナミが国づくりの矛を授かるシーンを描いたもの。
3階特別室の様子。
3階特別室の天井。
大阪市中央公会堂は、大阪市民の愛してやまないシンボルだが、そこには、岩本栄之助という義侠心に富んだ男のドラマが隠されていた。
また、岡田信一郎という天才的な建築家の才能が花ひらいた記念すべき処女作だった。
大阪市民は今も、岩本の難波商人の根性を愛し、この建築を大切に守っているのだった。
『てんとう虫』2023年1月号(クレディセゾン機関誌)に掲載
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