設計:谷口吉生、2019年
金沢市が生んだ建築課・谷口吉郎(1904〜1979)と息・谷口吉生(1937〜)を記念する建築博物館。
父吉郎の住居の跡地にできた。
建築家をテーマにした博物館は初めてのものである。
大分市が磯崎新をテーマにした記念館を開設しようとしているので、その対比が大変興味深い。
父谷口吉郎は、明治37(1904)年、金沢市片町の九谷焼窯元の家に生まれた。昭和3(1928)年、東京帝国大学建築学科を卒業後、東京工業大学の講師となる。その後、助教授、教授となり、昭和40(1965)年、退官するまで、東京工業大学の建築教育の基礎を築いた。
東京工業大学からは、その後継者として、清家清、篠原一男、坂本一成、塚本由晴、安田幸一らの優れた建築家が教育者として東工大の建築の伝統を引き継いでいる。
ここから、林昌二をはじめ、民間で大活躍する建築家を数多く輩出し、近代建築の重要な一角を形成している。
この間、谷口吉郎は、建築家として、藤村記念堂、秩父セメント工場、東宮御所、帝国劇場、東京国立博物館・東洋館、迎賓館和風別館、などを設計し、戦後の日本近代建築の発展・成熟のために大きく貢献した。
近代建築を追求しながらも、常に和風建築の心を込めた、静かな独自のスタイルを極め、近代建築の中で独特な存在感があった。
文学者などの石碑のデザインでもよく知られている。
吉生はその長男として生まれた。
父親は子供を建築家に育てようと、密かに、建築を見せて歩いたり、それとなく影響を与えたが、直接、建築へ進むよう求めたりはしなかった。
この父親は、何事も直接指示したり、要求したりはしなかった。言いたいことは、母親から遠回しに言ってもらうような生き方だった。
年頃になると、むしろ、進路の話題は避けていたようだ。
大学進学にあたっては、将来の職業よりも、慶應大学という学校の選択を優先した。このため、建築学科のない慶應大学で、理工学部の中の機械科を選択した。
そこには、あまりにも、偉大な父の職業を避けた気持ちもあったに違いない。
しかし、父親としては、やはり、子供に建築家になって欲しい。そろそろ決断の時だった。
しかし、この父は、決して直接そんな気持ちを子にぶつけることはしなかった。
父吉郎の選んだ方法は、ちょっと手の込んだものだった。
ちょうどその頃、吉郎の元で助教授だった清家清(せいけ・きよし)がアメリカ留学から帰ってきた。
清家は、戦後の住宅作家として大活躍していた建築家だったが、非常に気さくで、テレビコマーシャルに出て「違いがわかる男」として多いに受けていた。
吉郎は、部下であるその清家を自宅に呼び、それとなくアメリカの話題などを語らせ、そこに息子を同席させ、話に巻き込んだ。
程よい頃に吉郎が席を外すと、清家は何食わむ顔で「アメリカもいいよ、君も建築をやったらいいよ」とその魅力を吉生に語って聞かせた。
父親の策略は見事に当たった。
慶應の機械科を卒業して、進路に迷っていた吉生は清家の話に飛びついた。
早速、建築学科への転向をきめ、ハーバード大学の建築・デザイン系大学院(GSD)への入学を進めた。
しかし、その5年間は非常に過酷なものだった。当時は、メールもなく、国際電話もほとんど通じない、全く孤独なしかも毎日の勉強の量はとてつもなく大変なものだった。
吉生はハーバード大学では優秀な成績を納め、卒業とともにアメリカの設計事務所に勤めてアメリカでの実務を学び、それを終えると、帰国して、丹下健三の事務所に入った。
ちょうど丹下は海外の仕事が増えていた時だったため、吉生は丹下事務所の海外の仕事に使われることになった。
父:吉郎と、子:吉生が一緒に設計に取り組んだ建築がある。
金沢市立玉川図書館である。
もとは、専売公社の金沢煙草製造所という煉瓦造りのタバコ工場をリノベーションして、古文書館と新築の図書館を作るという建築だった。
一方の古文書館は、吉郎の担当。レンガ造の工場をそのまま修復保存している。それに対して、図書館は、鉄とガラスの大胆な現代建築。
親子の初めての共作だが、その表情は正反対のものだった。
この作品を完成させると、父は、急速に体力を消耗し、逝去してしまった。
一方、子・吉生は、父を全否定したような図書館を作った後、結婚し、父を失くすと急に反省したかのように、父の追求していた和風建築の研究にのめり込む。
その後の吉生の建築は、父でさえ及ばなかった、非常に洗練された和風を加味した近代建築だった。
それは世界でも高く評価され、ついにニューヨーク近代美術館(MoMA)の増築という世界最高の檜舞台の設計者として招待され、改めて世界から高い評価を獲得した。
吉生のそういった、切れ味の良い、近代建築の美しさは、この建築でも存分に味わうことができる。
外観、エントランスホール、展示室、そして、ここでは、父・吉郎の設計した迎賓館赤坂離宮和風別館「游心亭」の座敷と茶室を再現している。
「游心亭」のメインの座敷を再現している。
見るだけでまったく使えないのは残念。
床の間周り。極めてシンプルなデザインだ。
座敷の床の間、天井、畳と完璧な静かさが支配した和風の極地とでもいうべき作品である。
和室の反対側には、大きなガラス窓を通して金沢市内の風景が展開する。
手前はプールになって、静かに風景を映しているが、プールは向こう岸のない「インフィニティ・プール」になって、さらに静かさを強調している。
「インフィニティ・プール」それは、スリランカの建築家ジェフリー・バワが初めて作り、世界中で大流行している池のデザインだ。
上野の法隆寺宝物館をはじめ、吉生は浅いプールを建築の前景として、建築の美しさを引き立てるデザインを得意としているが、ここでは、さらに洗練された水面の美しさを見せてくれる。
ここの水面は、父・吉郎が育ち、毎日眺めて親しんだ金沢の風景を写している。
このプールは四季折々に表情を変えて訪れる者を楽しませてくれるに違いない。
水までが、吉生のデザインに忠実に従って美しい水平面を見せてくれている。
父・吉郎はこの風景を見て育った。
崖上の素晴らしい眺めである。
ここも、同じく「游心亭」の茶室である。
端正なプロポーション、静かな構成美が支配している。
せっかくの茶室だが、これ以上入ることができないのは残念。
靴のままでもある程度利用できることを想定したものであろう。
エントランスホールを見下ろす。
吉生の得意とする端正な、しかし、大胆な空間。
エントランスホールの上部である。
日差し、椅子・机の影さえデザイされている。
前面の道路を隔てて、向かい側の古い街並みが見える。
正確にいうと谷口家の建築家としては、三代目。母がたの祖父が辰野金吾の元で東京駅の設計に携わった松井清足だ。しかし、ここは谷口親子の建築世界を十分に堪能させてくれる。
父・吉郎が子・吉生の大活躍を見ることなく亡くなってしまったのがなんともお気の毒としか言いようがない。
しかし、父の残した屋敷跡に二人の建築を記念する博物館を作った、こんな美しい話は世界中見渡しても他ではないだろう。
なんとも、スケールの大きな親孝行である。
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