謎の多い建築家「ル・コルビュジエ」の真実とは??
恵美ちゃん:上野にこんな素敵なレストランがあるなんて、知らなかったわ。
東郷さん:東京文化会館の2階にあるんだけど知らない人が多い。オペラを見る前にここで軽く食事をするなんていいでしょ。
恵美ちゃん:いつか、いい人と来ることにしましょ。
東郷さん:どうぞ、頑張ってください(笑)。
宮武先生:ところで、いよいよ西洋美術館が世界遺産に登録が決まりましたね。
東郷さん:会議の開催地だったトルコでちょうどクーデター未遂事件があって、ちょっとハラハラしたけど、なんとか決まったね。
恵美ちゃん:建ってからまだ60年もたたない新しい建築が世界遺産て、めずらしいんじゃありませんか?
宮武先生:そうですね。名称は「ル・コルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献」というものです。選考理由として世界遺産委員会は「人類の創造的才能を表す傑作であり、20世紀における世界中の建築に大きな影響を与えた」としています。
恵美ちゃん:私、コルビュジエと西洋美術館についていろんな疑問がありますので、今日は、いっぱい質問しますから、よろしくお願いします。
今日の恵美ちゃんは髪を後ろに縛ってひきしまった表情だ。
東郷さん:いい機会だから、今日はコルビュジエをしっかりと勉強するか。
恵美ちゃん:まず、最初に「ル・コルビュジエ」って本名なんですか?とっても言いにくいし、名前にフランス語の定冠詞「ル」がついているのはヘンじゃないですか?
宮武先生:本名は「シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ」なんです。「ル・コルビュジエ」というのは、雑誌に記事を書くようになってペンネームとして使ったのがはじまりです。しかし、次第に建築家として作品を発表するときにもこの名前を使うようになったんです。
恵美ちゃん:では、次にル・コルビュジエはフランス人と考えていいんですか?
宮武先生:生まれたのはスイスのアルプスのふもとの田舎町ラ・ショー=ド=フォン、時計の生産が唯一の産業という町で、ル・コルビュジエのお父さんは時計の文字盤職人だったんです。
東郷さん:お母さんはピアノの先生だったらしいぜ。
宮武先生:最初は地元の工芸学校に通っていたんです。だからル・コルビュジエははじめ、時計装飾美術を勉強していたんです。
恵美ちゃん:では、いつ建築と出会ったんですか?
宮武先生:この学校のレプラトニエという校長先生がすごかった。ル・コルビュジエの才能を見抜いて、建築家を目指すことをすすめ、当時最先端のドイツへ工芸教育の実情調査という口実で勉強に出したんです。
東郷さん:ル・コルビュジエが建築に目覚めたのは、このときにギリシャとかいろいろ旅行したのがきっかけだよな。
宮武先生:その後も精力的に各地を旅行し、一流の建築家に会い、見聞を深めていったんです。
恵美ちゃん:じゃあ建築の勉強はどこでしたんですか?
宮武先生:それが学校では正規の建築教育は受けていないんです。有名な建築事務所に入って修業したけど、ほとんどは、独学なんです。
恵美ちゃん:建築って、学校でならわなくても勉強できるんですか?
東郷さん:日本人でも、坂倉準三、白井晟一、安藤忠雄とか、建築の教育を受けていないのに、すごい建築家になった人がいるよ。
宮武先生:そのル・コルビュジエが建築家になるのは、パリへ出て、前衛的な画家や詩人と友達になって、彼らの生き方を学んでからなんです。それまでは、田舎から出て来た臆病な青年だったんですが、だんだん大胆になって革命的な建築論を主張するようになったんです。
恵美ちゃん:世界遺産になったル・コルビュジエの建築は、7カ国にわたっていますね。交通が不便だったはずなのに、ずいぶん世界中に散らばっていますね。
宮武先生:ル・コルビュジエは、パリに設計事務所を開いたんだけど、そこには世界中から若者が入門して働いていたんです。日本人も何人も入門したけど、有名なのは、前川国男、坂倉準三、吉阪隆正の3人なんです。才能はもちろんですが、家柄もよく、豊かな人ばかりです。前川、坂倉は戦前、吉坂は戦後です。
宮武先生:ひと頃は世界中から13カ国の青年が集まっていたというのに、フランス人は女性のインテリアデザイナー1人だったそうです。
恵美ちゃん:どうしてそんなに若い人が集まったのかしら?
宮武先生:作品が魅力的だったけど、それ以上に過激な本の影響が大きかったのです。なによりも的確な言葉で近代建築の本質を発信したのです。例えば「住宅は住むための機械」とか「近代建築の5原則」もよく知られています。
東郷さん:世界中に散らばっているのは、その弟子たちの影響力がもの言ってるんだろうなあ。西洋美術館だって3人の弟子がいなかったら実現しなかった。
恵美ちゃん:では、世界中でル・コルビュジエは圧倒的な影響力をもっていたんですか?
宮武先生:じつは、日本が特別なんですよ。世界中で日本は飛び抜けてル・コルビュジエの影響を受けているんです。はじめに入門した前川国男の影響も大きかったけど、坂倉準三も吉坂隆正も大活躍しました。丹下健三は学生時代にいつもル・コルビュジエの作品集を持ち歩いていたというし、日本の戦後の建築は、まずル・コルビュジエの模倣から始まったといっても間違いないと思います。
東郷さん:丹下さんの建築もはじめはル・コルビュジエの影響が大きかったよなあ。ほかの建築家はそれをまねたんだから、日本中がル・コルビュジエのコピーになってしまった。
宮武先生:ル・コルビュジエの本をバイブルのように読んでいた人も多い。ほとんどの設計事務所には必ずル・コルビュジエの作品集がありましたからね。8巻本で何万円もする高価なものですが、お金ができたら必ず買ったんですね。
東郷さん:すごいのはコルビュジエは専門の編集者を抱えて、自分で作品集を発行し続けたんだ。解説はフランス語、ドイツ語、英語で書かれているんだけど、建築は図と写真を見れば誰でも分かるから、みんなそれを見て勉強したんだ。
恵美ちゃん:コルビュジエは宣伝も上手だったということですか?
宮武先生:自分の考えを発信することに熱心だった。自分で雑誌を発行し、本を書き、作品集を出したんです。彼の考え方が世界中に広まったのは、彼が本を通して精力的に発信したからなんです。
東郷さん:コルビュジエの本は、前川国男とか吉坂隆正など、弟子たちが精力的に訳したから、主な本はほどんど日本語で読めるんだよ。
恵美ちゃん:私でも読めるものがあるかしら。
宮武先生:『建築をめざして』{吉阪隆正訳 鹿島出版会)という本が代表作です。わかりにくいところもありますが、絵や写真が沢山入っているから、言いたいことはよく分かると思いますよ。
恵美ちゃん:ふーん読んでみようかな?
恵美ちゃんは赤い表紙の手帖を取り出して、細い指にボールぺんを固くにぎって、細かい字でメモをはじめた。
東郷さん:この本はちょっと難しいから、東秀紀の『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社)という本をいっしょに読むといいよ。スイスの田舎町からパリへ出て、あっというまに過激な建築思想のアジテーターになっていく様子がよく書かれているよ。
宮武先生:ル・コルビュジエについては山のように沢山の本が出ていますけど、彼の本当の魅力を描いたのは『現代建築の巨匠』(ペーター・ブレイク著 彰国社)が最高でしょうね。ル・コルビュジエとフランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエを近代建築の傑出した巨匠として描いているんです。1967年だから50年も前に出た本だけど、いまだにこれを超える本はないと思います。ものすごく売れた本だから今でも古本が簡単に手に入ります。
恵美ちゃん:では、次の質問です。ル・コルビュジエの代表作を教えて下さい。
宮武先生:そりゃあ、何と言ってもサヴォア邸ですね。白い箱、ピロティ、横長連続窓、平らな屋根(フラットルーフ)、屋上庭園、そしてじつにのびのびとした内部空間。ル・コルビュジエが掲げた近代建築の理想的な要素が全部揃っています。そして何よりも、美しいのです。
東郷さん:伝統的な建築とまったくちがうだろ。彼が掲げた「近代建築の5原則」を全て満たした作品なんだ。近代建築の5原則とは、えーと、
1、ピロティ
2、屋上庭園
3、自由な平面
4、水平連続窓
5、自由な立面
以上だね、たしか。
恵美ちゃんがまた手帳にメモを続けた。
東郷さん:だけど、代表作にはロンシャンの教会もあげたいなあ。サヴォア邸とは全然違うんだけど、これも傑作だと思うよ。
恵美ちゃん:あれー。これは、屋根があるし、ピロティはないし、横長の窓もありませんね。これでも近代建築なんですか。
宮武先生:うーん。むつかしいところですね。「近代建築の5原則」をかなぐり捨てて彫刻的な作品をつくってしまいましたね。
東郷さん:これが素晴らしい。近づいてゆくと丘の上に白い固まりが乗っているんだ。実に不思議なキノコみたいな建築だけど、中に入るとはじめは真っ暗なんだ。でも目がなれるといろんな色のステンドグラスから光が差し込んで、それはそれは幻想的な空間なんだ。
宮武先生:ル・コルビュジエはどんどん変化して発展するんですよ。初めは幾何学的なものを主張していたのに、戦後は曲線的でダイナミックなものになる。作風がガラッと変わるんですが、それでも、これも近代建築の代表的な傑作と言われているんです。
東郷さん:ル・コルビュジエは午前中はアトリエで絵を描いている画家なんだよ。若いころは、幾何学的で透明な絵を描いていたんだけど、次第に豊満な女性の裸体を描き始めたんだ。そうしたら建築も曲線の多い自由な造型になってしまったんだ。
恵美ちゃん:えー、絵と建築って別のものだと思っていましたけど、そんなに関係しているんですか。じゃあ、ル・コルビュジエは初期の作品は男性的、後期は女性的な作品を作ったと言ってもいいんですか。
宮武先生:単純には割り切れませんが、たしかに、そんな傾向はありますね。
東郷さん:言い換えると、初期は理性的、後期は感覚的かな。エヘン。
恵美ちゃん:はい、知性的なお答えありがとうございました。
恵美ちゃん:では、他にはどんな作品があるんですか?
東郷さん:つぎはユニテ・ダビタシオンだなあ。集合住宅なんだけど、住宅のほかに、商店、医者、幼稚園とまるで都市みたいな巨大な建築なんだ。それが、太いピロティの上に浮き上がってるんだ。
宮武先生:戦後の住宅難の解消に提案したんですが、なかなか受け入れてもらえなくて、やっと一つマルセイユの郊外に建設が決まったんです。そこには、ル・コルビュジエがそれまで提案してきたアイディアがぎっしり詰まったものだったんです。18階建て、337戸、1,600人が居住。プールも、ホテルもあるんです。
東郷さん:戦後すぐの集合住宅なのに、各戸に大きな吹き抜けがあるし、デザインが画一的でなく、ベランダもカラフルだし、じつに楽しそうなんだ。
恵美ちゃん:日本の公団住宅とは大違いですね。
恵美ちゃん:では次に西洋美術館はどんないきさつでコルビュジエに設計を依頼したんですか? 戦後10年目くらいで、日本はまだすっごく貧しかったのに、ずいぶん思い切った決断だったと思いますけど。
宮武先生:じつはそのいきさつが分からないんですよ。でも間違いなくお弟子さんたちが推薦したんでしょうね。なにしろ、フランス政府がしぶしぶ返そうと決断したものですから。コルビュジエに依頼するチャンスと思ったんでしょうね。
恵美ちゃん:松方コレクションて、すごいと思いますけど、なんでそんなにすごい絵や彫刻が集まったのですか?
宮武先生:川崎造船の社長の松方幸次郎が第一次世界大戦で疲弊していたヨーロッパに造船で儲けた資金にまかせて買いまくったんです。画商の店へ行ってステッキでここからここまで、と言って買ったなんて話も残っているんです。あるときはいま使える金が3千万円あると言ったらしいけど、今の価値に直すと300億円だそうです。
恵美ちゃん:わたしはモネの睡蓮が一番好きなんですけど、もっと驚くのは中庭にあるロダンの彫刻なんです。あれって、すごくないですか?
宮武先生:松方さんがある時、出来たばかりのロダン美術館へ行ったそうです。すると、美術館は予算がなくて、ロダンの彫刻の鋳造ができずに困っていたそうです。そこで、松方さんは、金を出すから、鋳造しなさい、そのかわりにふたつずつ作って私にその一つを譲って下さいと申し入れたそうです。ロダン美術館は大喜びで受け入れて、第1回鋳造品を譲ってくれたそうです。
恵美ちゃん:じゃあ、ロダンの彫刻は、本当に価値のあるものなんですね。
宮武先生:そうなんですよ。第一級の作品が中庭で自由に鑑賞できるなんてすごいことなんですよ。
恵美ちゃん:でも松方さんが集めた美術品はその後どうしたんですか?
宮武先生:それがいろいろあってね。イギリスに預けてあった絵の倉庫が火事で焼けてしまったり、松方さんの会社が倒産したために日本に来た絵が競売にかけられたり、あげくの果ては第二次世界大戦に入って、残っていたものがフランス政府に没収されてしまったんです。でも1955年にサンフランシスコ講和条約のときに、吉田首相がフランスの外務大臣に交渉してやっと返還が決まったんです。そんな訳で戦前に持って帰った絵はバラバラになって、ブリジストン美術館や大原美術館に入ったり、8千点という膨大な浮世絵が東京国立博物館に入っているんです。でもフランス政府から返還されたものは、フランス政府から「専門の美術館をつくって保存、展示すること」という条件がつけられたので、国立西洋美術館をつくることになったんです。
恵美ちゃん:すごいドラマがあるんですね。ところで、コルビュジエさんは、設計の依頼をよろこんで受け入れてくれたんですか?
宮武先生:いやいや、それがなかなか大変だったらしい。そのころコルビュジエは70歳を超える高齢だったのに、インドのチャンディガールなど大きな仕事を抱えていて、いそがしくて、そんな遠くの仕事やってらんないよとなかなかいい返事をもらえなかったそうです。それで最後に辣腕(らつわん)の女性外交官がパリへ行って膝詰め談判で説得して受け入れてもらったらしいですよ。
東郷さん:それで、たしか、コルビュジエは日本に来たんだよね。
宮武先生:当時はプロペラの飛行機を乗り継いで2日間かかってやってきたみたいです。
恵美ちゃん:日本では、桂離宮とか古建築は見たんですか?
宮武先生:見たんだけどぜんぜん興味がなくて、ただ「線が多すぎる」と言っただけらしいですよ。
東郷さん:うーん。たしかに、コルさんの建築の魅力は「ヴォリューム」だからなあ。線はきらいかもしれないなあ。なにしろ豊満な美女が好きなんだよ。
恵美ちゃん:あら、東郷さんはちがうんですか?
東郷さん:おれは、美女より建築さ。
恵美ちゃん:おやおや。ほんとかしら。コルビュジエさんには子どもはいないって聞いたことがあるんですけど、奥さんはいたんですか?
東郷さん:いたよ。イヴォンヌっていうとっても肉感的な女性だったらしい。料理は上手だけど、コルビュジエの仕事にはまったく興味がなかったそうだ。コルビュジエはいつも叱られていて、家ではまるで子どもみたいだったそうだ。
恵美ちゃん:まるで見てきたみたいですね。ところで、コルビュジエはどうやって国立西洋美術館を作ったんですか?
宮武先生:2年ほどして、設計図が送られてきたんです。ところが、それは、寸法すら入っていない、簡単な図面3枚だけだったんです。「日本にはわしの弟子たちがいるからなんとかしてくれるはずだ」という態度です。仕方なく3人の弟子たちが東奔西走、大変な努力をして図面を仕上げて、完成までもっていったんです。
東郷さん:たしか、コルビュジエが送ってきたのは、美術館だけではなくて劇場や企画巡回展示館まで入った大きな計画だったんだよね。
宮武先生:そうなんですよ。でもそんな予算はないし、結局美術館だけ作ることになったんだ。それでも政府が用意した予算では全然足りなくて、民間からの寄付を募ったんです。それで、有名な画家の先生たちが集められて、なんとかご協力をお願いします、と言われたわけ。だけどはじめはみんなそっぽを向いて知らん顔していたそうです。その時安井曾太郎という当時の大物画家が「美術館ができれば、結局われわれがお世話になるんだから協力しよう」といって、結局、梅原龍三郎、猪熊弦一郎、前田青邨、山口蓬春ら、560人の画家が作品を寄付して、これをきっかけにして1億円近い寄付金が集まって何とか建設費がまかなえたという話です。
恵美ちゃん:大変だったんですね。それでコルビュジエさんはこれができてからご覧になったんですか?
宮武先生:残念ながら、見ないうちに2年ほどして亡くなったんです。でもコルビュジエを大好きなこの日本に作品を一つ残してくれたのは、ありがたいことですね。先人の努力に感謝しなくちゃいけません。
恵美ちゃん:ところで、最初の質問にもどるんですけど、コルビュジエはフランス人だったんですか?
宮武先生:そうですね。1930年にフランス国籍をとったんです。亡くなったときには「フランス文化への大いなる貢献」という理由でルーブル宮殿で国葬をしてくれたんです。結局フランス政府からは仕事はもらえなかったけどね。
恵美ちゃん:きょうはとっても良い話をいろいろ聞かせていただきました。すごく勉強になりました。ありがとうございました。
東郷さん:そうだ、口直しにアメ横でビールでも飲んでいこうや。