建築家の東郷さんが宮武先生といっしょに、地下鉄神保町駅の階段を登ってゆくと、出口で友達と話し込んでいた恵美さんが両手をひらひらと振っている。
「先生、こんにちわ~。」
恵美さんのトーンがいつもより高い。隣の友人は長い茶髪を胸までたらし、大きく胸の開いたブラウス、派手なブランドもどきのバックを抱えている。
東郷さんは、目をぱちくりして言葉がでないが、先生はさすがに若者のファッションにはなれている。
「今日は一人じゃなかったの?」
「先生、この子は私の高校時代の同級生の町田理恵といいます。いま、房州大学の哲学科にいるんですが、学校が面白くないらしいんです。それで先日建築の話をしたら興味をもってどうしても先生たちに会わせてくれというので、今日、連れてきたんです。」
「突然すみませ~ん。よろしくお願いしま~す。」
「いいですよ。なんでも聞きたいことがあったら聞いてください。」
「この子、ちょっと浮わついて見えますが、ほんとはすごく真面目なんです。」
4人は駿河台方面へ歩き出した。
「今日は、恵美さんが聞きたいことがある、というから、神保町のベルギービールの店を予約しておいたんだ。」宮武先生のなじみの店らしい。
「わー、楽しみ。」女の子が二人声をあわせた。
ベルギービールのブラッセルズは猿楽通りを入るとすぐ右側だ。宮武先生は店の横にある間口の狭い急な階段をなれた足取りで登ってゆく。2階の奥の階段をさらに登って3階へ出ると狭いながらも大きな窓が開き、まるで船の操舵室のようだ。
「わー。すてきなところですね。」恵美さんが大きな声をあげた。
「ここはベルギービール専門のバーなんだ。200種類のビールがある。」
店長がメニューをもってくる。
「とりあえず、シメイのルージュを4つ。これは修道院がつくっているビールなんだ。」
「ところで、今日は、なにか質問があるといっていたけど、どんな質問かな。」
「わたし、町田理恵です。無理にお願いして、来てしまいました。先生におうかがいしたいんですけど、女性でも建築ってできるんでしょうか。」
「もちろん。いまの大学の建築学科には女性が沢山いますよ。僕の大学の建築学科では学生の三分の一が女性です。」
「えー。そうなんですか。驚いたなあ。」まず恵美さんが奇声を発した。
そこへ、シメイ専用の丸い大きなグラスが4つ置かれた。
「ベルギービールは銘柄ごとに専用のグラスがあるんだ。」と宮武先生。
「じゃあ飲みながら聞いてね。もうずいぶん以前からそういう傾向なんです。そればっかりではありません。建築学科には文系の卒論に相当する卒業設計というものがあるんですが、最近はその最優秀作品が毎年女性です。今年は、修士設計のトップも女性だったんですよ。」
「えーっ、ほんとですか。建築って男性の世界だと思ってました。」と理恵さん。
「でも、卒業して就職とか女性の仕事はあるんでしょうか。」
「もちろんありますよ。就職先で一番多いのはハウスメーカーですが、ゼネコンにも行くし、設計事務所にも行きますよ。僕のゼミを出て、有名な女性建築家の事務所でがんばっている子もいますよ。」
「そうなんですか。」理恵さんは目を丸くしている。
「だけど建築学科を卒業して、建築家になるのは、むしろ少ないんですよ。僕のゼミの卒業生には、造園、料理人、イラストレーター、編集者、IT技術者とすごく多彩ですよ。」
「でも、女性で建築家になる人はいるんですか。」
「驚くことはないよ。」東郷さんが口をはさんだ。「最近は女性建築家の活躍は目覚ましいよ。長谷川逸子、妹島和世、乾久美子と、有名な人もいくらでもいるよ。なかでも妹島和世は世界中から引っ張りだこだよ。」
「女性建築家の建築って違うものなんですか?」
「そうだね。建築というのは、論理性と感性の両方が必要なんだけど、女性建築家はどちらかというと感性を生かしているね。この写真を見てごらん。」
「これは長谷川逸子さんの湘南台文化センターだ。コンペでとったんだけど、これは女性が建築に本格的に進出するおおきなきっかけになった作品なんだ。出来てからもう22年たつけど、まだ充分刺激的だし、楽しく使われている。市民劇場、プラネタリウムのほか、市民活動の拠点になっているんだ。大胆なデザインは、なんだか空想的だね。」
「これは妹島和世の金沢21世紀美術館だ。これは市民から愛される開放的な美術館として高い評価を受けた。学校帰りの女子学生がここへ立ちよっていくんだ。こんなに親しまれる美術館はめずらしい。これはすごいと思うよ。研ぎ澄ませた感覚がためらわずに大胆に展開しているね。」
「芝浦にある妹島和世のオフィスビルだ。小さく見えるけど、となりのマンションと比較すれば、かなり大きなビルだということがわかるでしょ。スケールの捉え方が違うんだよ。オフィスビルでもこんな大胆なことができるという驚きの作品だね。
妹島和世は形を決めるまで、模型を作り続けて、100個でも200個でも自分の感覚で納得できるまで作りつづけるというこだわりは有名な話なんだ。」
「これは乾久美子の日比谷花壇だ。小さな店なのにそれをさらに小さな建築に分割してビル群のようにしたんだ。小さな建築だけど、実に工夫に富んだうまい建築だと思うよ。」
「かわいらしい店ですね。」
「先日、国立競技場の立替えの案を募集するコンペがあって、イラク出身の女性建築家ザハ・ハディドの案が最優秀案に選ばれたんだ。東京オリンピックのときに丹下健三が代々木の競技場を設計して以来の大型の国家的なプロジェクトなんだ。審査委員長の安藤忠雄さんが「強いインパクト、日本の先進性を世界にアピールできるデザインだ」と高く評価したんだ。」
「わー。すごいデザインですね。未来都市みたい。これが女性建築家の作品ですか。」
「そうなんだ。この人ははじめは絶対に実現しそうにない、絵のようなものばかり描いていたんだけど、やっと現実に採用されるようになったんだ。」
「面白い話があるんだ。この国立競技場はザハがとったけど、最後まで争ったのは妹島和世だったんだ。じつは、妹島和世とザハは以前、フランスのランスにできるルーブル美術館分館の設計でも1・2位を争ったことがあるんだ。審査員の点数は二人の得票は同数で、激しい論争のすえ、妹島和世(SANAA)が勝ち取ったんだ。この建築はもう完成しているけど、こんどの国立競技場でザハはリベンジを果たしたわけだ。」
「環境やエコという現代の課題に誠実に応えていたのは、妹島和世の方だったんだけど、オリンピックというのは政治の力がからんでいるからね。どうしてもパワフルなものが選ばれる傾向がある。」
「でも、建築家の世界というのは、そんなカリスマ的な人だけじゃあない。街で地道に活動している女性の建築家は沢山いますよ。特にこれからは、大きな建築ではなく、もっと身近な住まいや環境に取り組む人が増えると思いますよ。それはまさに女性の活躍する場所なんですよ。」と宮武先生。
「でも、そんな仕事つづけられるのかしら。」理恵さんは自分のことのようだ。
「そうだね、おれの学生時代はひとクラス150人のうち、女の子は4人しかいなかったんだ。でもそのうち二人は60代のいまでも現役の建築家なんだ。結婚して、子育てして、家庭を維持しながら、建築家の現役をつづけているね。」と東郷さん。
「夫婦で建築事務所をやっている人もいるんだ。手塚貴晴と手塚由比の夫婦は有名だし、今年建築学会賞をもらった真壁伝承館は渡辺真理と木下庸子の夫婦の作品なんだ。夫婦の建築事務所は他にも沢山あるみたいだよ。」
「すてきですね。では、私が建築家になりたいと思ったら、どうしたらいいんでしょうか。」理恵さんは、次第に本気になってきた。
「やはり、大学の建築学科に入ることでしょうね。僕の大学にも、途中から入ってくる学生は珍しくないなあ。」
「わたし、絶対に来年先生の大学に挑戦します!」理恵さんが宣言した。
「おおー!いいですよ。ぜひいらっしゃい。」と宮武先生はうれしそう。
「よーし、じゃあ乾杯しよう!」