印刷革命と建築

 この50年ほどの間に本の作り方が激変した。

 私が新建築社にいた時代は、鉛でできた活字を職

人が一つずつ拾って、ページに組み、それにインク

を載せて紙に押し付けるという方法で印刷していた。

いわゆる活版印刷である。印刷所には巨大な活字の

ケースがあって、どこにどの文字があるか、頭に

入っているベテランの植字工が目にも留まらない速

さで活字を集めてゆく。難しい漢字につけるルビと

いう小さな活字も同時に集める。魔法のようであっ

た。当然まちがいもある。横向きに置いてしまうこ

ともある。非常に手間がかかり効率が悪い。

 それを仮に印刷して校正刷りを作る。編集者はそ

れを読んで赤字を入れる。すると行がずれてゆく。

これを組み直して行くのは大変な作業だ。

 原稿は当然、原稿用紙に手書きされたものである。

 文字は、筆者によって癖があって、読みにくい人

がいる。非常に癖のある筆者の場合、印刷所ではそ

の筆者には特定の植字工が担当することもあった。

 建築雑誌のように写真が入る場合は、写真を鉛板

に焼き付けて、微細な凹凸をつけて表現していた。

写真の質は荒く、今とは比較にならない。

 写真の入るページは、この写真の鉛版を文字の間

に組み込んでゆくわけである。

 このため、特に大切な写真を別のページに集めて、

凸版とは異なるグラビアという印刷で刷ることが

あった。グラビアは目が細かく滑らかな表現ができ

るので大切なページだった。

 今では、グラビアと言えば、アイドルの写真集の

代名詞になっているが、以前は、建築雑誌でもよく

使われていた。

 

 

 

 

 こうして印刷所の仕事は受け取ったデータを加工

して紙に刷ることだけになってしまった。

 この変化にいち早く目をつけた人がいた。室谷文

治。海外の建築を日本に紹介することを目的にし

た雑誌『a +u』を立ち上げた時、社長を務めた人だ。

彼が『a +u』をやめて『Process Architecture』を

立ち上げた時、製版作業をシンガポールの印刷会社

に発注したのだ。ここには、世界中から編集された

データが送られてきて非常に安価に製販・印刷・製

本をこなしていた。

 私は、室谷に頼まれて、校正のためにシンガポー

ルへ行って目を見張った。そこには、イギリス、オー

ストラリアなど世界中の出版社からデータが送られ

てきて、シンガポールで製販、印刷、製本されて本

国へ送られていた。

 では、文字を組む仕事はどこへ行ったのか。実は、

この頃、突然現れたのが、デスクトップパブリッシ

ング(DTP)という言葉だった。それを実現したのが

Apple社が開発したマッキントッシュだった。

 編集者は卓上にマッキントッシュ1台あれば、レ

イアウト、組版、校正などの作業を加えて、データ

 

を印刷所に渡すだけでよくなったのだ。

 期限を守ってくれない筆者はいつでもいるが、こ

の当時活躍していた評論家の小能林宏城は、締切の

ギリギリまで粘って新宿の喫茶店で執筆していた。

私はそばについて一枚書き上がるたびにそれを持っ

て、市ヶ谷の大日本印刷に駆けつけるという離れ業

の常習犯だった。

 話が少し脱線するが、小能林は、その当時『新建築』

のほか『建築』や『都市住宅』の常連執筆者で、毎月、

見本が届く日に編集部へ現れて、真ん中の机に座っ

て、できたばかりの雑誌をゆっくりめくりながら、

的確なコメントを加えてゆくのだった。

 今月は「ミース・タン・コル・マイヤーだな」。ミー

ス・ファン・デル・ローエ、丹下健三、ル・コルビュ

ジエ、オスカー・ニーマイヤーと当時の第一線の建

築家の影響を受けた建築を揶揄した言葉だ。

 また、塔のある市庁舎を得意とした佐藤武夫の作

品を見て「さあ、塔を立てよう」と、親しみを込め

て笑い飛ばすのが面白くて、編集者たちは必ず周り

を取り囲んだ。

 小能林は原稿に取り組むのは遅かったが、万年筆

で書き進むとほとんど直すことがなかった。

 当時は、新建築社には朝晩、大日本印刷からお使

いが通っていて、その日に入稿する原稿を持ってゆ

き、刷り上がった校正刷りを届けてきた。

 この活版印刷を駆逐したのは、オフセット印刷

だった。これはアルミの板に薬剤処理をして、水に

親和性のある部分と弾く部分を分けて文字や写真を

印刷する方法である。リトグラフが磨いた石の表面

に処理していたのをアルミに変えたと言えば、わか

りやすい。

 活版印刷を凸版、オフセット印刷を平版と区別す

ることもある。

 その利点は、活字がいらないこと、薄いアルミ板

だけで済むので、非常に扱いやすいことだ。

 この変化は早かった。あっという間に大きな活字

の棚とともに植字工がいなくなってしまった。

 このため、印刷所の役割が激変した。それまでは、

原稿を印刷所に入れると、あとは文字を組んで印刷

するまで印刷所の仕事だった。ところが、活字がい

らなくなると、文字は写植(写真植字)という印画

紙に文字を焼き込んでゆく全く異なるシステムに

なった。これにより、文字を組む仕事が印刷所から

 

切り離された。

 印刷が激変している間に建築の設計も大きく変

わった。製図板の上にトレーシングペーパーを敷い

て、T定規を使って鉛筆で線を引いていたのが、あっ

という間にパソコンの中にCADで描く時代になって

しまった。

 建築雑誌に作品が掲載される時、写真とともに図

面が掲載されるのだが、以前は、建築家から提供さ

れた図面を元に線を整理してトレースして分かりや

すい図面に描き換えて掲載していた。この時代の雑

誌の図面はひと目で理解できた。

 そのトレースは建築学生にとっては、都合の良い

アルバイトだった。学生にとってもその作業によっ

 

て現実の建築に接する良い機会になっていた。

 新建築社では、会社から近かったため、東京藝術

大学の学生がアルバイトに来ていた。後にコンペイ

トウのグループ名で活躍した元倉真琴や井出建など

がよく出入りしていた。元倉はその後槇事務所に入

り、代官山ヒルサイドテラスの設計に携わった。

 ところが、パソコンで設計するようになると、図

面のデータが建築家から提供され、それを掲載する

ようになった。トレースという作業がなくなったの

で手間は省けたが、そこには、何を表しているのか

理解できない無駄な線が多く、記入されている文字

も読み取れないほど小さな文字が詰まっていること

 

がある。

 こうして印刷革命は進んできた。しかし、日本で

は、DTPが実現したとは言い難い。

 なぜなら、日本語が複雑すぎるからである。英語

が26 文字でほぼ全て表現できるのに対し、日本語

は46 字のカタカナ、ひらがな、数千字の漢字を駆

使しなければならない。縦書きも、横書きもある。

パソコンで書く時は横書きなのに、ほとんどの本は

縦書き。横書きは理工書くらいである。同じ言葉を

人によってかなで書きたい人と漢字で書きたい人が

いる。ちょっとした文章を書くにも大変なスキルが

必要なのである。欧米人がパソコンで書いた原稿は

そのまま印刷できる。しかし、日本語があまりに複

雑なので、印刷できるまでにかなり専門化した作業

が必要になるのである。例えば、横書きでは、英字

や数字を入れても違和感がないが、それを縦書きに

するとき、どうするか、いろんな選択肢があり、判

断は、非常に難しいのである。一般市民が手軽にそ

こまで行くのは難しい。日本がデジタル化で世界か

ら大きく立ち遅れているのは当然である。

 この問題も、AIの進化によってある程度解決して

くれるかもしれない。すでに日常会話の翻訳技術で

は、かなり実用段階にきている。そうなれば、DTP

 

も大分身近になってくるだろう。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。