異能の構造家 川口衞

 2005 年3 月に丹下健三が亡くなって、翌年の新年

会で構造家の川口衞に会って、新年の挨拶をした時

だった。川口は代々木の第一体育館の構造を坪井善

勝のもとで担当したことが知られている構造エンジ

ニアだ。そこで、川口から丹下健三の思い出を聞い

ているうちに、その話を改めて聞かせてほしいと頼

んでみた。

 すると、快く「いいですよ」と返事をもらったので、

3 月6 日に10 人ほどの仲間に声をかけて小さな集ま

りを持った。そこでは、代々木の体育館での構造担

当者として、巨大な屋根を吊り橋のようなケーブル

で架ける前代未聞の課題を、限られた期日と予算の

中で、解決のために戦った緊迫した日々と驚くべき

数々の工夫を話してくれた。

 この時の話の記録は同席していた桐原武志がまと

めてくれた。それを読んだ友人の一人からぜひ続き

をやってほしいと頼まれたので、再度川口にお願い

すると、今度は大阪万博のお祭り広場に架けた約

100m × 300mの巨大なスペースフレームのジョイン

トの工夫とそこを覆うフィルム屋根の興味深い話を

聞かせてくれた。

 集まったのは、構造の専門的な知識のない、意匠

系の設計者がほとんどだったが、川口はそれを承知

の上で数式をいっさい使わず非常にわかりやすい言

葉で、構造計画の真髄に触れる話をしてくれた。こ

れらの記録を50頁ほどの小冊子にまとめ『構造と感

性』と題名をつけて仲間内に配布した。

 

 

 

 

 

 川口は福井大学を卒業して、東大の大学院へ進み、

坪井善勝のもとで、構造、特にシェル構造や吊り構

造の研究と設計に携わってきた。同時に法政大学で

教え始めていたが、私の学生時代に詰襟の学生服を

着た先生に驚いた記憶がある。卒業後も先生は同窓

会活動に協力を惜しまず、卒業生の新年会には必ず

出席された。

 川口の小セミナーはその後も続き、小冊子も5冊

まで刊行された。第5冊目が刊行されたのは2012年

2 月だった。

 そんな小さなセミナーが5 年間にわたって十数回

続き、川口の関わった主な作品をほぼ語り終わった

時、全部をまとめて本にすることになった。これは、

2015 年9 月、『構造と感性』として鹿島出版会から刊

行された。言い換えると、この本の執筆、編集、刊

行のために10年かかったことになる。

 川口は多くの本を執筆・翻訳してきたが、自分の

作品について書いたものはこれまでになかったので、

これが、川口が関わった作品の全貌をまとめる良い

 

機会になった。

 川口衞は超一流の構造家だったが、決して堅苦し

い学者ではなく、自分のことを構造エンジニアと称

していた。民謡を好み、浅草の民謡酒場「追分」で朗々

と民謡を歌うのを楽しみにしていた。川口は、ここ

へ若い人たちを誘い一緒に歌うことを楽しみ、この

時間を大切にしていた。民謡酒場への道で、浅草寺

にさし掛かった時、その本堂が鉄筋コンクリート造

であること、その大きな屋根の瓦が超軽量のチタン

製であることなどをさりげなく教えてくれた。

 1997 年、ドイツのシュトゥットガルト大学から

名誉工学博士号を贈られた時、お祝いの席で必ず要

求されるパフォーマンスのため、「追分」の女将と三

味線の弾き手たちを連れて会場に乗り込み、羽織袴

 

姿で得意の民謡を披露した。

 川口衞はとびきり柔軟な思考に富んだ人だったの

で、関わった作品の幅は驚くほど多彩なものだった。

 川口の初めての作品は、広島の平和公園にある。

ここには丹下健三の平和記念資料館など名建築があ

るので、川口の小さな作品はあまり話題になること

はないが、実は示唆に富んだ名作なのである。

 佐々木禎子という少女は2 歳の時に被爆し、11 歳

で白血病を発病、回復を願って折鶴を折り続けた

が、その甲斐もなく12歳で亡くなった。彼女の死

をいたみ折鶴を持った少女のブロンズ像が作られた

が、その台座の塔の設計を依頼された。

 川口の大学院生の時代だ。川口が考えたことは、

鉄筋コンクリート製の塔の耐久性だった。ブロンズ

像の寿命は長い、しかし、その台座を普通にコンク

リートで作ったのでは、30 年から50 年で劣化が始

まる。これでは話にならない。そこで、密実なコン

クリートを打つために、塔を3分割し、内側を上向

きにして工場で固練りのコンクリートを入念に打ち、

現場で接合した。つまりプレキャストコンクリート

だ。もう一つの問題は足元だった。コンクリートの

建造物は足元から水が滲みあがり劣化する。これを

避けるため、3つの足にステンレスの沓を履かせた

(1958年)。

 これらの配慮によって、完成した塔は、肉の薄い

繊細なシェル構造であるにもかかわらず、完成後

60年以上たつ今も劣化は見られず、美しく堅牢な

姿を見せている。小品ながら、川口のコンクリート

 

に対する周到な気配りがよくわかる作品である。

 川口の作品の中で最もダイナミックなものがパン

タドームだ。屋内競技場などの巨大なドーム天井は

危険な高所作業が付きものだが、川口は、ドームを

地上で建造してから上空へリフトアップする構法を

開発し、その構法をパンタドームとして完成し、実

用化した。

 ドームをリフトアップする時は、非常にダイナ

ミックで美しい動きを見せてくれるので、工事のハ

イライトとして見せ物になった。工事に携わった作

業員たちにとっても誇りに思える瞬間だ。

 なみはやドーム(1997年)では、長径126m、高さ

42mの楕円のドームを斜めにリフトアップするとい

う難しいものだったが、8 時間の作業が完了すると、

担当者たちは肩を叩き合い、握手をして完成を喜び

あった。川口はこれを見て、建設現場はこのように

カッコよくあるべきだ、これこそ本来の「建て前」

 だと語っている。

 磯崎新の最初期の作品に大分県医師会館(1960年)

がある。大学院の学生だったころ本郷の下宿で構造

の川口と共にシリンダーを横たえた不思議な建築を

作っている。それ以来、磯崎は大切な建築は川口に

相談している。バルセロナ・オリンピックのサン

ジョルディ・スポーツ・パレス(1992年)はパンタ

ドーム工法を初めて海外で実現したものだが、ダイ

ナミックなリフトアップ作業が話題になっていたの

 

で市長が市民へのプレゼントとして公開して見せた。

 さらに川口の柔軟な発想をよく表しているのが、

加須(かぞ)のジャンボ鯉のぼりだ。埼玉県加須市は昔から

鯉のぼりの産地だったが、衰退してゆく木綿の鯉の

ぼりをアピールするため青年会議所の若者たちが長

さ100mという巨大な鯉のぼりを作った。せっかく

作ったので河原で泳がせようとテレビ局を呼んでイ

ベントを企画したが、布地が破れるなどしてどうし

ても上がらない。そこで、流体力学や応用数学など

の専門家に相談したが、どうしても解決できなかっ

た。それが川口のもとに持ち込まれた。

 川口は、科学者に見放された鯉のぼりでも、技術

的に解決できるかもしれないと、問題点を一つずつ

検討し、解決策を提案、ついに泳がせることに成功

した(1998 年)。ポイントは、布は大丈夫だが縫い

目が弱い、だから小川テントの協力を得て工業用ミ

シンで縫い直す。巨大な鯉を引くには軽くて強い口

金が必要なので、アルミのリングにスポークのよう

にビニロン・ロープを渡すなど、いくつかの改良を

加えて見事に解決。以後、毎年加須の年中行事とし

て5 月3日に利根川の河川敷でジャンボ鯉のぼりが

空を舞い、大勢の観光客を楽しませている。

 川口衞の『構造と感性』は英文版の出版に向けて

 

関係者たちによって英訳の作業が進んでいる。

撮影:桐原武志

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。