建築評論家・長谷川堯

 

 彗星のように現れた論客

 1960年代、日本の近代建築は空前の繁栄を謳歌していた。丹下健三、前川國男、村野藤吾、槙文彦、磯崎新、黒川紀章、菊竹清訓らの巨匠たちが毎月のように大作を発表し、それに歩調を合わせるように建築雑誌も次々に創刊し部数を伸ばしていた。

 当時、書店の建築書の棚を飾った建築雑誌は『新建築』『建築文化』『国際建築』『近代建築』などがあり、そこに『建築』(1960年)『SD』(1965年)が加わっていよいよ百花撩乱の様相を呈していた。各誌は個性的な編集者を抱え、特色のある誌面を競っていた。雑誌は紙面を飾る作品に事欠くことはなかったが、同時に紙面を埋める有能な筆者を求めていた。

 長谷川堯が彗星のように現れたのはちょうどそんな時代だった。

 長谷川が建築雑誌に初めて登場したのは『国際建築』であった。卒業論文「近代建築の空間性---ミース・v・d・ローエとル・コルビュジエ」が1960年8月〜1961年2月号まで7回に渡って掲載されたのだ。戦前に建築評論で健筆を振るっていた評論家であり、早稲田大学文学部美術史教室で長谷川の指導教官であった板垣鷹穂の推薦によるものだった。卒業論文がそのまま雑誌に掲載されるなどというのはまったく異例だが、しかも巻頭論文という破格の扱いは編集長小山正和の決断である。このとき、長谷川は23歳であった。

 このあと長谷川は、『国際建築』に62年から64年までほぼ毎月デザイン全般にわたる短い評論を書き続けた。

 1965年になると、鹿島出版会から『SD』が創刊され、長谷川はその編集委員の一人として、編集企画に関わり、さらにデザイン全般にわたる評論に筆をふるった。

 1968年になると『近代建築』にも小さな評論を書きはじめているが、同時に『新建築』『デザイン』などにも書きはじめ、60年代から90年代まで常に毎月どこかの建築雑誌に執筆するという建築評論家としての姿勢は一貫していた。

 こうした評論活動の一方、『近代建築』1968年9月〜11月の3回に渡って「日本の表現派---大正建築への一つの視点」という大作を発表する。若い編集長加藤正博の強いすすめに応じて書かれたものだが、この論文は驚くことに、雑誌の巻頭に大きな活字で1段組で、しかも思いっきり大きな挿絵とともに掲載された。これに注目した近代建築の研究者・村松貞次郎(東京大学生産技術研究所助教授)が未知の長谷川に激励の手紙を書いたのは有名な話だ。

 興味深いのは、その1年後、1970年の1月にその村松が建築学会の『建築雑誌』を大正建築の特集号として、長谷川に寄稿を求めたことである。村松の要請に応えて長谷川は「大正建築の史的素描--建築におけるメス思想の開花を中心に」を執筆する。村松は1969、1970年と『建築雑誌』の編集委員長を勤めていたため、大正建築の特集号を企画したのだが、他の執筆者を見れば長谷川のために企画したものに違いない。長谷川はその勢いをかって翌1971年『デザイン』11月、12月さらに1972年3月号にわたって「神殿か獄舎か」を寄稿する。

 

 長谷川堯と相模書房

 長谷川のこの充実した論攷群に目をつけたのが神子久忠であった。かれは、新建築社を退社し、相模書房に席を得たばかりであったが、すでに精力的に建築評論集の刊行を始めていた。佐々木宏『20世紀の建築家たち1・2』、小能林宏城『建築について』、そして長谷川堯の文章に着目して単行本として刊行を始めていたのである。

 相模書房は1936(昭和11)年に開業した建築専門書の老舗であったが、この当時は戦前から一人で編集に携わっていた引頭百合太郎が高齢化のため引退間近か、入社したばかりの神子がやっとバトンタッチした小さな出版社であった。社屋は中央区入船の昔ながらの木造家屋であった。神子の他には社長と経理のあばちゃんが一人いるだけという本当に小さな出版社であった。

 神子は長谷川の大正建築を中心にした論攷を中心に編集し、『神殿か獄舎か』(1972)として刊行すると、続いて、長谷川の短編をかき集めて『建築---雌の視角』(1973)を刊行、さらに長谷川が『建築』誌に1973年1年間に渡って「日本の中世主義---あるいは〈都市〉における建築の光景」を連載すると、続いてこれを『都市廻廊』(1975)として刊行した。

 私は1960年代の最後の4年間新建築社に在社し、1970年大阪万博の年に退社した。この4年間は今振り返ってみると、日本の近代建築の総仕上げの時代であり、1970年の大阪万博で燃え尽きたかのように沈滞期に入って行くという時代の大きな転換期だった。『新建築』では1969年7月号で久留米、萩、島根に点在する菊竹清訓の大作をまとめて紹介する機会があり、編集長の馬場璋造は評論家として長谷川堯を起用した。この時書かれたのが「菊竹清訓における建築の〈降臨〉のゆくえ」であり、後に『神殿か獄舎か』に収録されたものである。これがその後長谷川が『新建築』に寄稿する始まりである。

 私が長谷川に初めてあったのは、当時、新建築社で机を並べていた神子とともにこの原稿を受け取りに行った四谷の喫茶店であった。長谷川は大柄で、非常に豊かで穏やかな話し振りは包容力のある人柄を感じさせた。この印象は、その後50年たってもまったく変わることはなかった。その5年後、相模書房に入っていた神子から誘われて私も同社に入社した。その時、神子は『神殿か獄舎か』『建築---雌の視角』を世に送り出し、『都市廻廊』の編集にとり掛かっていた。私はこの本の編集から手伝うことになったわけだが、よく記憶しているのは、この本の挿絵のために長谷川の家に本を借りに行った時のことである。

 長谷川の家は今の地下鉄東新宿の近く、古い路地の残る一角であった。長谷川はここの木造アパートの2階の薄暗い室に大量の本に埋もれて住んでいた。それが、『神殿か獄舎か』のあとがきに自嘲ぎみに書かれている「抜弁天のもるたるながや」であった。大学卒業以来、大塚テキスタイルの非常勤講師以外の定職はなかったので、10年ほど貧乏暮らしの中で、研究に専念していたことになる。

 研究室に残るでもなく、就職を考えることもなく、喰うあてもなく、ひたすら好きな建築の研究に没頭するというのは、考えてみると無謀な生き方をしていたことになる。これがまもなく大輪の花として開花するとは本人も想像していなかったに違いない。

 『都市廻廊』というなんとも魅力的な書名は、長谷川のアイディアであった。私の知っているかぎり、長谷川は自著の書名は必ず自分で考えた。書名は出版社や編集者が考えることも多いものだが、長谷川の言葉にたいするセンスはずば抜けていた。

 『都市廻廊』が出版されると、まもなく読売新聞に書評が掲載された(1975年9月15日)。評者は土方定一。著名な美術評論家であり、当時神奈川県立美術館の館長であった。長谷川の著書が建築の枠をはみ出して羽ばたくきっかけの一つになった。

 さらに『都市廻廊』は、この年(1975)、第29回毎日出版文化賞を受賞した。

 ラグビーに例えるなら、編集者たちの巧妙なパスが続いた後、ついにトライに成功した瞬間だ。

 その後は、武蔵野美術大学美術史の講師(1970)から助教授(1977)、教授(1982)と安定した地位につくことができ、出版は、印税もまともに払えない小さな相模書房の手から離れ、次第に大手の出版社へと移っていった。

 それを象徴するの出来事があった。『都市廻廊』が中央公論社から文庫版(1985年)で出版されたのである。われわれにとってはショックであったが、手軽な価格で多くの読者の手に渡るならそれも仕方ないかと思っていたが、文庫版は数年にして絶版となった。

 一方、『神殿か獄舎か』は長らく絶版になっていたが、2007年、編集事務所を主宰していた私の所へ、鹿島出版からSD選書に入れたいので編集を頼むという話が舞い込んで来た。初版の出版から35年たっていた。SD選書の頁数の制約から、「日本の表現派」「大正建築の史的素描」「神殿か獄舎か」を残し、万博、白井晟一、岡田新一、菊竹清訓を論じたものを割愛して再刊が実現した。しかし、この再刊には藤森照信から「長谷川堯の史的素描」という懇切丁寧な解題をいただき、花を添えることができた。

 初版は神子の編集で、私は表紙のデザインを手伝っただけだったが、この再刊は2人で編集にあたることができた。長谷川堯と鹿島の編集者川嶋勝と4人で祝杯をあげたのが昨日のように思われる。相模書房は、2018年佐藤弘社長の逝去とともに店を閉じたが、長谷川堯の名前とともに歴史に名を刻んだといえよう。

 

 

 長谷川の「あとがき」

 長谷川は出版にさいして必ずあとがきを書いたが、その署名の上に住まいを示唆することばを添えることが多かった。

 

 『神殿か獄舎か』(1972) 抜弁天のもるたるながやにて

 『建築---雌の視角』(1973) 若葉におう西向天神わきのもるたるながやで

 『都市廻廊』(1975) 筑土八幡わきの混苦利ながやで

 『建築の生と死』(1978) 百合丘にて

 『生きものの建築学』(1981) 紅葉の高尾山下の巣にて

 『村野藤吾の建築---昭和・戦前』(2011) ミシュランの三ツ星効果てきめん、今や老若男女の山女山男で年中混雑する高尾山の麓の、日々老朽化のすすむ我が家の小さな仕事部屋で

 

 こうして「高尾山の麓の、日々老朽化のすすむ我が家」が終の住処となった。

(『住宅建築』2020.6「追悼 長谷川堯さん」に「建築雑誌の黄金時代に」として掲載)

 

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。