瀕死の近代建築—法政大学55/58年館

建築家の東郷さんは、市ヶ谷の駅を降りると、外堀の土手を歩き出した。JR中央線の中でも一番視界の開けた気持ちのよい歩行者専用の道だ。土手の下には中央線、その向こうに外堀、その向こうに外堀通り。四谷駅から飯田橋駅まで、この気持ちのよい景観は続いている。東京を代表する美しい場所である。

法政大学は市ヶ谷と飯田橋のちょうど中間にある。

飯田橋から来た宮武先生と恵美ちゃんがちょうど向こうから歩いてきたところだ。

「いいロケーションだね。こんな場所に学校があるなんて羨ましいな」と東郷さん。

「外堀に沿った高台、都心でありながら、雑踏から距離がある。理想的なキャンパスですね。」宮武先生もしきりに感心している。

「私は桜の季節に来てみたいわ。」とスニーカーの恵美ちゃん。

 

「これが法政大学55年館と58年館、大江宏の設計で、建築界の芥川賞と云われている建築学会賞を取った近代建築の秀作なんです。」

「不思議な名前ですね。」

「そうなんです。長い一つの建築にみえますが、真ん中で継ぎ足した二つの建築なんです。1955年と1958年に完成したのでそのまま名前に採用したわけです。いつできたのか分かりやすい。」

「50年前にできたにしては、ものすごくシャープなカーテンウォールだなあ、モダニズムの典型的な作品だ。」

「白と黒の格子がきれいですね。」

「そうなんだ。最近の単調な窓割りのビルと違ってリズミカルな格子が気持ちいい」

「前に突き出した会議室棟が対照的なデザインですね。」

「屋根のコンクリートシェルがリズミカルでいいアクセントになっているね。」

「屋根の曲線がとってもかわいいと思います。レンガの色も好きです。」

「絶妙な対比とバランス感覚、うまいもんだね。」

 

「大江宏はこの大学の建築学科の創設者です。当時の総長、大内兵衞の信頼を得て、キャンパス全体を設計しました。戦後の民主主義の時代に相応しい明るく民主的なキャンパスを作ろうとする、高い志が伝わってくるような気がするんです。」

「総長の要請に応えて、大江さんは、鉄、ガラス、コンクリートというモダニズムの表現で、明るく開放的な建築を実現した。戦後10年ほどで、ものがない時代に、ずいぶん苦労して作ったらしい。

コンクリートも今のようなミキサー車ではなくて、現場で捏ねて突き固めたそうだ。よく見るととっても奇麗なコンクリートだ。」

「わたし、これには和風建築を感じるんですけど…。」

「うん。確かに和風建築のセンスですね。」

「世界に出して立派に通用するモダニズムの建築だけど、それが和風の味付けになっているというのが面白いところだね。」

「見ていてとっても気持ちのいいリズム感みたいなものを感じるんですけど。」

「ガラスの向こうにうっすらと、コンクリートの円柱が透けて見えるね。」

「ガラスの後ろに見えるのはコンクリートの丸い柱ですね。ここだけ丸い柱ということは、ガラスを通して見える効果を考えてここだけ円柱にした、ということですよね。」

「そうなんだよ。ミニスカートから足がニューッと出ているのではなく、着物の裾からチラチラと足が見えているような色気なんだよな。」

「そこまで考えたカーテンウォールというものは見たことがない。」

「太い線と細い線、白い壁と黒っぽいガラス、絶妙なリズムを奏でていると思います。」

「これが法政大学のシンボルとして親しまれて来たんだね。」

「近代的な開かれた大学のイメージにピッタリだなあ」

 

「大江宏は丹下健三と大学の同級生ですが、丹下がモダニズムに一直線に進んだのに対して、大江はこの校舎でモダニズムを実現するとやがて、もっと日本に相応しい建築があるはずだといろんな様式の模索を始めるんです。」

「この建築が完成した1958年には、丹下健三が庁舎建築の最高傑作といわれている香川県庁舎を完成していますね。」

「うーん。二人はいい勝負だなあ。」

「ピロティ、レンガ壁、コンクリートシェル、会議室棟だけど、実にきれいにまとまっているね。」

「ピロティの下が学生さんの溜まり場になっていますね。」

「ガラスのカーテンウォールと対照的なデザインになっています。」

「キャンパスの中のアクセントになっている。」

 

「私、今朝家を出る前にdocomomoのモダニズム建築100選を確認してきたんですけど、この建築は入ってないんですね。」

「そうなんだよ。これは典型的なモダニズム建築だと思うけど、これを入れないなんでおかしいよね。」

「一説によると、一応選んだんだけど、大学に確認すると、建て替え計画があるので、選定はやめてほしいといわれたということだ。」

「でも、それでは、優れた近代建築を残そうという運動の趣旨に沿わないじゃないですか。」


(2012年に法政大学55・58年館はDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダンムーブメントの建築に追加選定された。157番目の作品となる。)

「玄関ですね。円柱が綺麗だ。」

「なんだか、透明感があって、爽やかな風が抜けて行くようで、いい気分ですね。」

「ここでも、軽快な、気品を感じますね。」

 

「大学は本当にこれを壊すつもりなんですか?」

「そうらしい、このままでは、暗くて、使いにくい、学生が集まらないと云っているらしい。」

「御茶ノ水の明治大学も堀口捨己の校舎を壊してコンビニの入ったおしゃれな校舎を作った。このままでは明治に負けると焦っているらしい。」

「裏側ですね。」

「あーら、大きな斜めの廊下がありますね。」

「斜路というんだけど、授業の間に大勢の学生が一斉に移動するためにつくられた。」

「大胆なデザインですね。」

「斜路の柱も円柱ですね。」

 

「大学はほんとにこれを壊すんですか?」

「卒業生の一部に反対があるんだ。リフォームして残そうという運動をしている。しかし、大学はあくまでも建て替えで突っ走っているみたいだ。」

「単調になりがちな壁面に斜路が大胆なアクセントになっていますね。」

 

「この校舎はリフォームすればまだ使えるんですか?」

「十分使えるでしょう。明るくなるし、設備や電気系統も十分現代の要求に対応できる、それは現代の常識になっている。」

「だけど、建て替えて金儲けしたい人が耐震性なんかを持ち出して、オーナーをけしかける例が後を絶たないんだ。」

「耐震性だって、今では耐震補強が常識ですけどね。」

3人は斜路を歩きながら、話を続けた。

「こんな校舎で勉強したかったよ。彼女と映画の話をしながらこの斜路を歩きたかったなあ。」

「あっ、これが教職員食堂です。」

「屋根がコンクリートのシェル構造になっていて、実に美しい。」

「この屋根とさっきの会議室棟の屋根、ともにシェル構造だけど、構造家の青木繁が苦労したものらしい。」

 

「それで…、大学は建て替えて、どんな校舎にしたいんですか?」

「最近、大学のホームページに計画案が出たので、見てください。」

「えーっ。まるで漫画じゃないですか。こうしないと学生がこないと本当に思っているんですか?」

「大学はどんな学生を集めたいと思っているのでしょうかねえ??」

「どんな大学にしたいのかなあ。」

「アカデミックな誇りや気品はどこへ行ってしまったんでしょうか。」

「学生が来れば勝ち。数の論理だけが独走しているような気がする。」

「大きな校舎を壊して同じような大きさのあたらしい建築を作る、まるで過去の高度成長期のスクラップ・アンド・ビルドの論理だなあ。巨大な資源の浪費、エネルギーの浪費、環境破壊、記憶の喪失、まるで時代の動向に逆行していると思うけど、ここの先生たちは本当にこんなことやりたいのかなあ。先生たちはこの計画をどう説明するんですかねえ。」

「その費用は将来の学生の授業料に期待しているわけだ。」

「ヨーロッパでは、古い建築をリフォームして使い続けるのが常識なんだけどねえ。」

「それこそ、今後の日本が追求するに値する価値だと思いますけど。」

3人は割り切れない気持ちのまま、神楽坂の雑踏の中へ消えていった。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。